ウクライナの平和を願って

横浜シティ・シンフォニエッタは、第40回演奏会で、チャイコフスキー交響曲第2番を演奏します。この曲には「小ロシア」という標題が付されることが多いのですが、「ウクライナ」とも呼ばれるようです。この曲について、指揮者、金聖響は『ロマン派の交響曲』の中で次のように書いています。

以前はロシア(ソビエト連邦)南部のウクライナ地方が「小ロシア」と呼ばれていたのですが、いまではウクライナとして独立しており、それに伴って「ウクライナ」と呼ばれることが多くなってきました。このタイトルもチャイコフスキーが自分でつけたものではないのですが、第1楽章冒頭にホルンがウクライナ民謡の「母なるヴォルガの畔で」という歌のメロディを奏でたり、第4楽章では「鶴」という民謡のメロディが取り入れられたりしているので、そのタイトルが定着しました。

(そこで私も、参加メンバー募集のチラシに「ウクライナ」のタイトルを追加してみました。)
ウィキペディアWikipedia)』では、この曲を「チャイコフスキーの作品の中では非常に陽気な楽曲の一つ」と説明していますが、それはおそらく4楽章がそのような印象を与えるからでしょう。しかし、1楽章の冒頭は、私たちがロシア民謡に対して抱いているイメージ通りの哀愁に満ちた旋律が、ホルンとファゴットによって歌われていて、北方的な翳りが支配的です。いずれにしろ、チャイコフスキーらしい魅力が存分に味わえる名曲であることに間違いはありません。
演奏会の参加メンバーですが、ヴァイオリンコントラバスの人数がまだ十分でないために募集中です。私たちの仲間に加わって、ウクライナの平和への願いを込めて一緒に演奏してみませんか。



スタッキング不能

誰が主人公というわけでもなく、次々に入れ替わる登場人物たちに何か事件が起こるわけでもない。物語性というものが皆無。ただ、その登場人物たちが、世間の常識とか、「〇〇らしくあらねば…」という同調圧力とか、流行だとかに対する違和感を表明し続ける。あるいはそれらが感じさせる滑稽さを抉り出す。つまり、およそ小説らしくない小説。いや、小説と呼ばれては、作者は不本意かもしれない。作者が企図するのは、小説でもなく、他のどのジャンルにも属さないような規格外の作品、つまりスタッキング不能な作品を生み出すことなのではないか。

「今のご時世、ミクシィとかフェイスブックやってない人の方が絶対モテますよね。見たくないですよね、そういうの」

「うん、私、好きな人がブログやってるだけでやだ。えらそうに映画とか本の感想書いてると思っただけで鳥肌がたつ」

 

いつまでたっても「入門」どまり

これは「二冊目の俳句入門書」という位置づけとのことだが、僕にとっては何十冊目の俳句入門書だろう? 読んでばかりで詠まないから、いつまでも「入門」どまりで上達しないのだ。でも、僕は入門書を読むことを楽しんでいるので、それはそれでいいのだ。(入門書は良い例句に出会えるのが一つの楽しみ。)

新しい国語の授業を目指して

旧来型の国語(特に現代文、その中でも特に小説)の授業に対していだく生徒の不満の根本原因に迫る。そしてこれからの国語の授業のあるべき姿を示唆してくれる本。(キーワードは、「論理」と「物語」。)
現役教員としては、こうした本を参考にして、具体的にどういう力を伸ばせたかを生徒が実感できるような授業をしたいと思っている。まだまだ勉強が必要だ。

詩を生み出す表現

橋本陽介の『「文」とは何か―愉しい日本語文法のはなし』を読むと、文法的に考えることの面白さをあらためて教えられる。僕が特に興味を持ったのは、次のようなところだ。

TGVでいらしたのですか」と接待係は聞き、ぼくは頷いた。ミシェル・ウエルベック服従』)

筆者は、この文が「ちょっと詩的な感じ」がするのはなぜか、と問い、その理由を考えるために、次の四つの文を例に挙げる。

(牧場で)①馬は走り、鳥は飛んだ。
②馬が走って、鳥が飛んだ。
③馬が走ると、鳥が飛んだ。
④馬が走ったので、鳥が飛んだ。

①は馬と鳥の動作が並列されていて、二つの動作の間に因果関係はない。
②だと、馬が走ったことによって鳥が飛んだ、という読みが強まり、③は、さらにその読みが強まる。④では因果関係が明確に示されている。

TGVでいらしたのですか」と接待係は聞き、ぼくは頷いた。

において、二つの動作は「馬は走り、鳥は飛んだ」のように無関係ではない。

だから、現代日本語の規範的な書き方では、「接待係が聞いたので、僕は頷いた」のように、論理的関係を明示することが普通なはずだ。
さらに言えば、「接待係りは聞き」と「は」が使われているから、これは従属節になっていない。互いに関係する二つの動作のはずなのに、無関係なものとして並列する形式が選択されている。だからこの文は、ちょっと詩的な感じがするのである。

なるほど。因果関係のある二つの出来事を、あえて因果関係を断ち切って並べたところに詩が生まれている。

 

頭がよく見える、要約力

この本では「要約」という語を、長い文章をキーセンテンスを押さえて100字とか200字とかの制限字数内にまとめる、という普通の意味にとどまらず、もっとずっと広い意味でとらえている。
たとえば、サッカーなどのスポーツで状況を把握してプレーに生かすことも要約、「〇〇とは、…」と定義することも要約、説明のためのイラストも要約、自分自身のプロフィールも、商品の宣伝文句も要約、俳句も短歌も要約、ということになる。
つまり、物事の核心を的確につかみ、簡潔に表現したものはすべて要約だ。だから、コミュニケーションにおいて重要な能力である要約力を、大いに鍛えましょう、ということになる。そしてそのための方法がいろいろ紹介されている。
ところで、この本のタイトル『頭がよくなる! 要約力』はこの本の内容の要約として適切だろうか? 要約力をつければ脳の働きがよくなりますよ、という話ではなく、要約力のある人は、頭のよい人、仕事のデキる人に見えますよ、ということなので、このタイトルにはやや違和感あり。

高校生に人気のある作家を読んでみるシリーズ②

高校生に好きな作家、最近読んだ作品を訊ねるとよく出てくるのが伊坂幸太郎。昨年度授業を受け持った生徒の中で特に優秀だったKさんも、好きな作家として伊坂幸太郎の名を挙げていた。
というわけで、生徒との会話の種に一つ読んでみようと選んだのが『チルドレン』。この作品のユニークな点は、5編の短編小説が、互いに関連しあって、全体として一つの世界を構成していること。要するに「連作短編集」なのだが、それぞれの短編のつながり方に工夫が凝らされている。だから、この本は時間を置かずに一気に読んでしまわないと、その工夫が見えてこない。(大丈夫、軽い小説なので、一気に読めてしまう。)
内容的には、どの作品にも登場する、陣内という型破りな人物が印象に残る。陣内のような、マイペースを貫ける厚かましさというのは、僕には全く欠ける要素だと思う。少しは陣内のようになりたい…(この、少々戯画化された陣内のような人物造形が、今時の高校生を面白がらせているのだろうか?)