脳生理学者の芭蕉論

 おそらく古本屋の店先の100円均一のワゴンの中にあるのを見つけて買ったのだろう、ずいぶん前から本棚にあって、そのままにしていたのを読み始めてみたら、これが意外と面白い。
 筆者が言いたいことの柱は、「芭蕉が情報化社会の先駆者である」、「俳句は右脳で作るもの」の二つである。
 前者については、芭蕉は全国の門人たちと手紙のやり取りなどで、情報のネットワークを作り上げていた。だからあの時代に、あれだけの大きな旅行ができたのだと言う。
 後者については、右脳にはイメージ的世界・感覚的な世界を作り上げる働きがあり、左脳には分析的な働きがある。創造につながるのは右脳。芭蕉にも左脳で作り上げた句があり、それらは駄句であるとバッサリ切り捨てる。たとえば、

  夏山に足駄を拝む首途哉

については、「かなり理屈っぽい句で、左脳的である。芭蕉もこういう句をつくるんだなと思えばよい。」と批判する。山本健吉

いよいよ白河の関を越えるのだから、これから踏み越えるべき奥州路の山々を心に描いて「首途」と言ったのだ。「足駄を拝む」に、芭蕉の前途幾百里の思いがこもっている。(「『奥の細道』全句評釈」)

と評している句だ。最後の鼎談(+江國滋滝大作)では、一番好きな句は

  淋しさや華のあたりのあすならふ

だと言っている。筆者品川嘉也は脳生理学者で、Wikipediaによると「右脳ブームの仕掛け人として多くの一般書を著した」のだそうだ。

30年前に出会っていれば…

 アクティブ・ラーニングはどのような時代の流れの中で提起されるに至ったか、今アクティブ・ラーニングを行うことの意義はどこにあるのか、アクティブ・ラーニングには具体的にどのような技法があるのか、それをどのように導入していけば良いのか…

 アクティブ・ラーニングについての理解を深め、実践へと導いてくれる、良書。「はじめに」で著者は「本書は、必ずしも教育を専門としない人々を読者対象に想定している」と言っているが、この本はチョーク&トークのスタイルから抜け出すことのできない教師こそが読むべき本ではないか。僕はたくさんの実践的なヒントをこの本から得ることができた。30年早く出会いたかった本。

アクティブ・ラーニングとは何か (岩波新書)

アクティブ・ラーニングとは何か (岩波新書)

  • 作者:淳, 渡部
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 新書
 

知識はもちろん重要である。だが、知識の習得だけをゴールにするのではなく、集めた知識を活用して、自らの知を更新していくことのできる〝学び方"の習得も同時に進めていく必要がある。

アクティブ・ラーニングの定着につれて、教師の専門性も教師に求められる資質も、〝チョーク&トーク"全盛の時代とは変わっていかざるを得ない。
私は新しい教師像を「教師=学びの演出家」と呼んでいる。演出家としての教師に期待される役割は、学習者が潜在的に持っている可能性を洞察し、共同の学びの成果としてそれを顕在化することである。

アクティブ・ラーニングの経験は、そのまま参加型民主主義の運用経験に通じている。民主主義を構成する要素は、民主主義の思想であり、民主主義的制度であると同時に、理念を具現化するものとしての「手続きと運用」だからである。

マークシート式問題批判

論理的に考え、書く力 (光文社新書)

論理的に考え、書く力 (光文社新書)

  • 作者:芳沢 光雄
  • 発売日: 2013/11/15
  • メディア: 新書
 

  教育施策については慌ただしく動いており、その点では既に消費期限切れの本であるが、まあ、それはともかく、マークシート式問題を批判した次のような部分には共鳴できる。

「選択式」で問題を解き続けていても、「答えを当てる」ことに意識が向くだけで、「自らの頭で考え」「根本から理解する」力はつかない(中略)

 国語のマークシート式問題では「正解として不適当なものの排除」が本質的に重要となってしまう。国語のマークシート式問題の解放を学んだことがある高校生なら、「断定的に言い切っている選択肢は、正解になる可能性が極めて低い」という〝格言"はよく知っている。(中略)

このような格言やテクニックを駆使してマークシート形式の問題が解けるようになる学びに膨大な時間を費やすことは、果たしてどれだけの意義のあることだろうか。

  マークシート式問題のような形式の出題、つまり誤りを含む複数の選択肢の中から正解を選ばせる問題は、大学の個別入試でも一般的だし、高校の普段の定期試験の中でも頻出する。これを解くときの頭の使い方は、いわゆる「脳トレ」によくある、左右の絵を見比べて間違いを探す、あれとよく似ている。左の絵では子供が水玉模様の服を着ているが、右の絵では同じ子供が縞柄の服を着ている、そんな違いを見つけることを、文章の上でやるのだ。文章を注意深く読むという訓練にはなるに違いないが、こうした問題ばかりでは本物の読解力はつかないだろう。もちろん、センター試験には文章の構成、表現などに関わる設問も用意され、全体としてはそれなりによくできた問題となっているし、個別入試問題においても、記述式問題を取り入れる工夫をしている大学はある。しかし、まだまだマークシート式問題の占める割合は多く、授業の中でも〝格言"などもちりばめながら、そうした問題への対応にそこそこの時間を割かざるを得ない、というのが現状だ。

年輪の温もり

 冨田民人の詩集『中有(そら)の樹』を読んだ。

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 この詩集の読者は、まず自分が過去に連れていかれることを感じるだろう。作者が作品中に登場させるものたちの多くは、長い時間の堆積物としてそこにある、あるいは読者を過去へと誘うものとして存在する。


 「道祖神」、「相模国分寺の遺跡」、「ちんちん電車」、「群れる爆撃機」、「新編相模匡風土記稿」、「沖縄」、「おはじき」…


 「昼の月」という詩では、子と父がキャッチボールする。子の投げた球は空間の割れ目から消える。消えた球の行く先は、過去である。球の行方を追いかけようとする者は、過去の時空へと連れ出される。


 作品中に登場する巨木たちもまた、数百年、千年という長大な時の重さをその中に封じ込めている。作者の求める詩は、その巨木たちの、年輪の「温もり」の中にある。


 しかし、作者はただ過去への郷愁に浸っているだけなのではない。詩集全体から感じられるのは、現在の自らの生を支えるものとしての過去に対する慈しみであり、感謝である。そしてその思いは、原発などの問題を抱える現代への怒り、未来への憂いにもつながっているようだ。

見える色、見えない色

 伊勢佐木町古書店、馬燈書房で佐藤文香の句集『海藻標本』を見つけて購入。冒頭の、

  少女みな紺の水着を絞りけり

はいろいろと取り上げられていて知っていたし、生徒に紹介もした。(9年ほど前の記事にこんなことを書いてます。http://mf-fagott.hatenablog.com/entry/20110622/p1 )
ところが、他の句は初めて読むものばかり。不勉強でスイマセン。 

海藻標本

海藻標本

 

  今回は、この句集が「緑」「紅」「褐」の三つの章に分かれているのに因んで、色に着目していくつかの句を取り上げる。「少女みな…」の句においても「紺」という色が句の命とも言える働きをしているが、その他にも色に焦点を合わせた句が多いように感じる。

  海に着くまで西瓜の中の音聴きぬ

硬い皮を優しく手でたたけば、西瓜はくぐもった響きでその中身の充実を教えてくれる。叩き割られ、中から真っ赤な果肉がはじけ飛ぶ祝祭的瞬間を待ちきれない思いで、砂浜に向かう若者たち。

  造花は赤ブーツの脚を組み直し

赤い造花と黒いブーツ。わざとらしく脚を組み直すしぐさ… 気を付けろ、男性諸君。かりそめの艶やかさに惑わされるな。

  白靴の真白あるらむこの箱に

開けられる瞬間まで、その中にあるのは「白い靴」ではなく、まだ汚れていない「白」そのものだ。あなたが欲しいのが「白い靴」でなく「白」そのものであるならば、この箱を開けることはもちろん、手に持って揺すったりもしてはならない。

  拾はれてより色を増す椿かな

人に拾われ、掌に載せられた時から、この椿の花弁はいっそう鮮やかさを増してその人の目に映るようになる。一旦生を終えて枝を離れた花も、人の所有となった時から、二度目の生を生きることになる。

  てふてふの辺りに色の多からむ

その色は、人の目には見えていない。見えているのなら「多からむ=多いのだろう」と推量するのではなく、「多し」と断定してしまえばいいのだ。「多からむ」と推量する主体は、人間でなく蝶の目で物を見ようとしているのだ。

  色のなきものを蔵してゐる浴衣

「色のなきもの」と言い切ることによって、これ以上はないというくらいの色っぽさを現出させてしまった不思議。絵を描くのに絵の具は要らない。

関根正二の自画像

 鎌倉の「関根正二展」を観に行ったのは2月13日、前期展示の期間中だった。展示替えした後にもう一度行きたいと思っていたのに、休館になってしまった。出品リストを見ると、前期後期で随分たくさんの作品が入れ替わっている。そうと知ると、今回の新型コロナ騒ぎがますます恨めしい。
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 窪島誠一郎わが愛する夭折画家』(講談社現代新書)を読んだ。取り上げられている6人の夭折画家の中でも関根正二が最も短命だ。20年と2か月の人生。その中であれだけの作品を残した。なんと凝縮された人生であろう。
 僕が印象深く思った作品の一つが、「自画像(1916年)」だったが、『わが愛する…』の筆者にとってもそうであったらしく、昭和42年、鎌倉の近代美術館で関根正二の作品と初めて出会った時のことを次のように書いている。

最も心にのこった作品は、黒インクでかかれたペン・デッサン「自画像」である。関根正二の代表作といわれる油彩画の「信仰の悲しみ」や「姉妹」「三星」、あるいは「少年」「チューリップ」といった作品にもひかれたが、ふしぎとその小さなデッサン「自画像」が私の心を一番つよくとらえた。

  筆者は、「まるですべての時間を停止させたような異様な緊張感があふれている」、「凝縮した」「スキのない」自画像を見ていると、「その場からにげだしたくなるようなふしぎな威圧感におそわれるのである」と記している。僕の受けた印象も全く同じだった。まだ17歳なのである。それが、こちらに向かって「お前は自分に厳しく生きているか?」と問いかけてくるようで、自分の生き方を見つめ直さずにはいられなくなるのだ。
 窪島は、後に自分の画廊を持ち、このデッサンを何とか手に入れたいと思う。もちろん、それは簡単に実現する話ではないのだが… その後のいきさつは、この本の中でも最も読者を引き込むところだろう。
 この「自画像」は、今は長野県信濃美術館の所有となっているが、それが今回の展覧会のために、窪島が関根正二と最初に出会った鎌倉の美術館に貸し出された。後期展示の方だったら、僕の目に触れることはなかったというわけだ。 

 

教えない先生

 もっと若い時に読んでおくべきだったんだよな、と思いつつ…

教師 大村はま96歳の仕事

教師 大村はま96歳の仕事

  • 作者:大村 はま
  • 発売日: 2003/05/29
  • メディア: 単行本
 

 戦後の大きな失敗は、先生たちが教えることを遠慮するようになったことだと思います。教えるということは「詰め込み」というふうに考えて、まずいこと、心ある教師のすることではないような気持になり、本当に教えない先生になった人が多いということです。

「先生の話、長過ぎ!」っていうのが世間一般の教師像であって、自分にもその傾向はあり、「教えない先生」が多いという認識はなかったけれど、確かにおしゃべりが長いわりには教えるべきことを教えていないというのはあるかもしれない。