作者の内面を表す季語

久々に本を買った。小川軽舟『俳句のしくみ 上達への18か条』(角川文庫)。

小川軽舟は、これから俳句を作ろうとする人に、人間探求派型の人事句の作り方を身につけることを勧め、草田男、楸邨、波郷の句をたびたび引き合いに出す。例えば、

 蟇誰かものいへ声かぎり   加藤楸邨

 雁や残るものみな美しき   石田波郷

のような句。ここでは季語「蟇」「雁」は取り合わせ(配合)として置かれ、それらは作者の内面の寓意ないし象徴として働いている。この作り方は季語そのものを詠う花鳥諷詠とは異なる。一句の主題は季語ではなく、人間の方にある。季語を人間描写の道具として用いる。

一句の内容にふさわしい季語を見つけることは、作者自身を表すことでもあるのです。

 

びびびびくしようこここれくしよん

本が部屋に収まりきらなくなり、少しずつ整理している。

この本も処分する候補。

紙ごみにするか、古本屋に持っていくか。(バーコードがついていないし、シミだらけなので、ブックオフでは値段が付かない。)

お別れに、ぱらぱらとめくって読んでみたら、意外と面白かった。

  暑き故ものをきちんと並べをる  細見綾子

  真剣に生きている汗かきにけり  本田保

  右ブーツ左ブーツにもたれをり  辻桃子

  世の中と少しづつずれ葱を嚙む  山藤三魔

 

気に入った句を並べたら、みんな真面目な句ばかりだ。

 

  ははははつくしよんかかか花粉症   戸田遊太郎

 

なんていう句もある。

 

 

「つまらない」が面白い

釘ん句会のメンバーの方からお借りして読んだ一冊。

この小説は「わたし=曾良」の視点から描かれており、芭蕉も「わたし」の目にはこんな風に映る。

翁と過ごしていると、矛盾、不一致、歪さを、無数に味わう。わたしにとって翁は大いなる謎だ。歩く混沌といったふうだ。

旅も終盤を迎えようという頃の「わたし」の感懐である。俳聖とも呼ばれる芭蕉だが、「わたし」から見た芭蕉は、決して聖人でも君子でもない。「がまんできない」芭蕉はむしろ厄介なわがままじじいだ。しかし、「わたし」にとって、旅を通して次第に俳諧の地平を広げていく芭蕉は大きな、魅力的な存在なのである。

「わたし」は芭蕉を超えることなどできない。いや、それどころか「わたし」は並みの俳人にさえなれない。「わたし」の自己評価はとても低い。

俳諧を愛する一介の人物として生きようと、月山にて心を固めたが、上手になることをあきらめたわけではない。よりよい俳諧を作れるようになりたいと、どんな瞬間にも考えている。なのになんの上達もできていない。

翁との二人旅のおかげで、俳諧の良し悪しは見極められるようになった。芭蕉の真髄についてだって語れるようになった。

けれど、じゃあ、おまえはどんな句が作れるのかと問われれば、たいしたものは作れない。目利きが良くなるばかりで腕前が上がっていない。

全編を通してこの調子。俳人としての自分に対するまなざしは極めて厳しい。これはどういうことか。曾良に対する客観的な評価を踏まえて、このような人物設定となったのだろうか? 「卯の花をかざしに関の晴着かな」などの句で文学史に足跡を残す曾良ではあるが、確かに同門の其角などと比べれば、扱いは軽い。しかし、これでもかというほど自己否定的な言葉が出てくるのはなぜだろう?

わたしはつまらない人間だ。無駄にまじめである。

こんな曾良は、同じくネガティブな発言をしがちな僕には、他人のようには思われない。もちろん、僕にとってはこの小説の主人公は芭蕉ではなく、曾良である。曾良に共感できるから、この小説を面白く読むことができた。

あるいは、作者もまた曾良に乗り移ることで、この小説を書き進めることができたのかもしれない、とも思う。曾良のせりふに作者の肉声が重なって聞こえてくるような気がしたのは、僕だけだろうか。

 

 

読まない読書、読めない読書

「昔読んだことを全く忘れている」という経験を綴った渡辺一夫の文章を引いた後で、「読んだ本の大部分が読まないのとだまったくおなじ結果になっているのは、ぼくもおなじだ」と語る管と、完全な読書は不可能であることを繰り返し述べる永田とは、ほぼ同じ読書観の持ち主であるように思われる。

ほぼ同じ時期に、続けてこれらの本に手を伸ばした僕自身の、本に対する思いもまた同じようなものだ。確かに本は読めない、いや、読んだとしてもほとんど忘れてしまう。覚えているのはほんの1パーセント、いや、限りなく0パーセントに近いと言ってしまっても良いだろう。

こんなことは前にもあって、このブログにも書いたような気がするが、以前買って読んだ本と同じ本をまた買ってしまった。(今回のは具体的には、千住博の『絵を描く悦び』だ。)買ってすぐ読み始めて22ページまで来たところで、何となくこのブログ内を検索してみたら、この本を読んで書いた記事が見つかった。検索する気になったのは、虫の知らせのようなものがきっかけであって、読んでいるうちに以前読んだような気がしてきたから確かめた、というのではない。つまり以前読んだ内容を、ほぼ100パーセント忘れてしまっている。しかし、一度読んだ本を、それとは気づかずにまた最後まで読んだとして、それが無駄な行為であるとは思わない。タイトルに惹かれ、目次に目を通して、今読むべき本と判断し、読み始めたことに間違いはなかった。しかし同じ本を2冊所有する必要はない。今回の220円の出費は無駄であった。(神保町の古本屋で見つけて買ったのです。)

ところで、永田の、情報の濁流の中に自律的積読環境=ビオトープ的積読環境を構築すべきであるという主張には賛同できる。それは未読の本を貯め込んでいるうしろめたさを和らげてくれもする。しかし、最後の章に書かれている通り、ビオトープは定期的な断捨離=新陳代謝を必要とすることを忘れてはならない。それは本を死蔵させているだけの状態にすること=蔵書のゴミ屋敷化を防ぐために必要なのだが、同じ本を2冊買ってしまう失敗を防ぐことにもつながりそうだ。

 

季語の奥深さ

片山由美子『季語を知る』は、季語の世界の奥深さ、難しさを教えてくれる。歳時記にあるから、季語として使えると安易に考えてはいけない。季語の形を不用意に変えてもまずい。例えば、

〇「花びら」が桜のものとは限定できない。連句では「花の座」で桜を詠むことが原則だったので、桜のものと解された。独立した一句では「花びら」を桜とする根拠がなく、季語としては極めて弱い。

〇「春愁」「秋思」は漢詩から来た言葉。その調べの良さに注目したい。「春の恨み」「春かなし」は言葉としてこなれていない。無理に作った言い換え季語は定着しない。

〇「囀る」に助動詞「り」を付けて「さへづれり」になることからの類推で、「もみづ(=紅葉する)」を「もみづれり」とするのは誤り。「り」は四段活用かサ変動詞にしか付かない。「もみづ」は上二段活用。

〇「秋高し」は使用頻度の高い季語だが、その由来を知っておいたほうが良い。秋になると北方騎馬民族が肥えた馬を駆って、収穫期を迎えた耕作地を襲撃するという、中国の故事に基づく。

 

「百閒の良さを知ってほしい」は新しい言い方であるらしい。

内田百閒の『北溟』(旺文社文庫)を読んだ。

どれもこれも、味わい深い文章ばかり。

「流行語」を読むと、言葉は時代とともに変化するのだということを知らされる。内田百閒によると、「早く帰ってほしい」というときの「…てほしい」という言い方は、当時の流行であって、受け入れられないものらしい。

「殺されて恨めしい」「喰ひ過ぎて苦しい」「離れて遠き満州」等の慣用は、下の部分の形容詞が、上の動詞語と原因結果の関係でつながつて居り、助動詞の「て」にその一句の段落がついてゐるが、それと同じ形の「殺して欲しい」には上と下とに意味のつながりがない。「欲しい」を助動詞の様に用ゐて、同類の「て」に連用しようとするのだから、無茶であり、国語の混乱のいい標本である。

ここまで言って百閒の嫌っているこの言い方、現代のわれわれからすれば全く違和感のない普通の言い方であるが、電子版の『スーパー大辞林3.0』には次のような説明がある。

②(補助形容詞)動詞の連用形に接続助詞「て」の付いたものについて、相手に自分の望むことを求める気持ちを表す。近世以降の用法。…てもらいたい。

「近世以降の用法」とあるから、百閒の時代には存在したけれどもまだ定着していなかったということなのだろう。耳慣れない新しい言い方に拒否感を覚えるというのは僕も同じなので、百閒の気持ちはよくわかる。

ところで、『日本国語大辞典』には『好色五人女』の「生つきたる鼻を高ふしてしてほしひ」という用例が載っている。僕にはこの「高ふ」「ほしひ」の仮名遣いは「高う」「ほしい」が正しいのではないかと、そっちの方が気になってしまった。

『コンビニ人間』を超える衝撃作?

『コンビニ人間』に続く『地球星人』は、同じ作者による作品かと思うほどの変貌ぶりだが、世の中の当たり前を疑おうとする作者の問題意識は共通している。しかし、『コンビニ人間』に比べて、読者の意識改革を促す力は弱い。というのは、『地球星人』は多くの読者のレビューが指摘しているし、作者自身もインタビューで語っていることだが、グロテスクな描写が前面に出てきてしまい、それに対する拒否感情が読者を覆ってしまうことで、かえって世の中の常識を疑うという問題提起の方が霞んでしまうようなのだ。小説なのだから、難しいことを言わず楽しめればそれでよいとも言えるが、残念ながらエンタメとしても、期待に応えてくれるものにはなっていない、というのが僕の率直な感想。『コンビニ人間』は生徒に紹介したい本のリストに加わったが、『地球星人』の方は、そうはならない。が、一方で生徒がこの作品をどのように受け止めるか知りたい気もする。案外、面白いという感想を持つ子も多いかもしれない。