早稲の花

未来図は直線多し早稲の花      鍵和田秞子

未来の都市生活においては、何よりも効率やスピードが優先される。そのため街のつくりは直線的であることが望ましい。建物や道路の設計図には定規で引いたような直線が多用される。それは硬質で透明感のある一種の美しさを醸し出してはいるが、どこか人の温もりが欠けている…

僕はこれまで、この句をこんな風に読んできた。しかし、『鑑賞 日本の名句』の次の鑑賞文を読むと、自分の読みの浅さに気づかされる。

未来の持つ可能性は、それば未知で不確かだからこそ限りなく大きく、直線は、迷いなく一点に向かってどこまでも伸びる。

僕の読み方には、「稲の花」という季語への目配りが欠けていた。「稲の花」には、収穫への期待と不安、豊作への願いが込められている。まして「早稲」となれば、刈入れの時期はすぐにやってくる。実り豊かな未来がすぐそこにあるというときめきを読み取るべきだろう。

第一句集『未来図』発行は昭和51年、この句の詠まれた時代には、自分たちが明るい未来にまっすぐ近づいていることを信じることができたのだ。

 

涙腺崩壊?(高校生に人気のある作家を読んでみるシリーズ⑤)

これも勤務校の図書館報に生徒による紹介記事が載っていた本。

濁音とカ行、タ行を必ずどもってしまう、不格好な村内先生が、心を病む生徒に寄り添って大切なことを伝えることで、状況を好転させるという話を並べた短編集。
僕が買った文庫本の帯には「涙腺キラー・重松清」「先生が選ぶ最泣の一冊」「100%涙腺崩壊!」「先生泣き№1」と威勢のいい文句が並ぶ。これだけ書いておいて泣けなかったとしたら、出版社の詐欺か? いや、泣けない読者の方が変なのか?
さて、僕はどうだったか。1話目、「ハンカチ」の最後の方の卒業式の場面、生徒が「村内先生、呼んでください」と叫ぶところで、思いがけず鼻の奥がつんと刺激された。おっ、ここでさっそく来たか、と思った。たしかにいい話だ。村内先生の存在感がどんと迫って来る。
この後も、同じ村内先生の登場する「いい話」が続く。全8話。どれも良く書けていると思う。教師のあるべき姿についても考えさせられる。しかし、「涙腺崩壊」というほどのことはなかった。最後の「カッコウの巣」では、「てっちゃん」が村内先生に心変わりさせられ、村内先生に惹かれていくプロセスに強引さを感じてしまったことは否めない。泣かせようという意図が透けて見える、とまで言ったら言い過ぎか。

こんなにどきどき

古川佳子句集『カルメンの顎

明るく快活。ダイナミックで若々しい。発想のユニークさにユーモアのセンスも加わって、人を惹きつける力がある…なんて書くと、まるで生徒の指導要録の所見欄みたいだけれど、これがこの句集から受けた印象。

 

  駅弁の紐をひつぱる梅ひらく

車内で弁当の紐をほどく、どこかで梅が咲く。二つの場面の強引な組み合わせだが、不思議と説得力がある。人を食ったようなぶっきら棒な言い方も面白い。

  葉桜やこんなにどきどき鬼を待つ

子供のどきどきを今も忘れていない。(作者は僕の母親の世代。)

  人間にもどり五月の森を出づ

森に入れば獣にだってなる。逞しい生命力。

  指笛に全身絞る青岬

全身を「絞る」とはなかなか言えなさそう。音は向こうの島まで届くだろう。

  初春や地べたの昼餉よく笑ふ

  三椏や応へはいつも高笑ひ

  秋晴や長寿手帳がやつてきた

長寿の源はよく笑うこと(それも、豪快に笑うこと)なのかもしれない。

  死ぬ日まで草に追はれて草を取る

「死ぬ日まで」と言い切る覚悟、見習いたい。

 

次の二句はよくわからない。それゆえ気になる句。

  冬の月今がどんどん食はれけり

「今」が食われるとはユニークな言い方。冬の月を見ていて時の過ぎ去る速さを感じたのだろうか? 丸い月が、何かに齧られて端から欠けていくようなイメージも浮かぶ。

  引つこ抜き折り嗅ぎ齧り息白し

動詞をこれでもか、と重ねている(4段重ね!)。で、何を引っこ抜いて、折って、嗅いで、齧ったのかは言っていない。 葱だろうか? 大根だろうか? いずれにしろ、従来の俳句イメージを突き破る、逞しさを感じさせる句だ。

 

最後に、好きな句。

  投函し海月を数へつつ帰る

  秋の空舌診る医師も舌を出す

まあまあ、そこそこ(高校生に人気のある作家を読んでみるシリーズ④)

山田悠介は初めて読む作家で、まったく知識は持ち合わせていないが、高校生には人気があるらしい。アマゾンの「商品の説明」中には「10代を中心に圧倒的な支持を得る」とある。
僕が中古店で買った文芸社文庫(2016年発行)の帯には「いま最も泣ける最新作」というキャッチコピーが大きく印刷してある。「泣ける」というからにはそれなりに深みや味わいのある作品なのだろう、と期待して読み始めたが、登場人物の思考と行動の単純さに最初からついていけない。泣ける場面はきっと最後の方に出てくるのだろうと辛抱して読み進めたが、涙もろい僕でも最後まで涙腺の弛むことはなかった。ただ、ストーリーはまあまあの出来でそこそこ楽しめたし、不幸な事件は起きるものの、読後感が爽やかなのが良かった。
それにしても、「圧倒的な支持を得る」作家がこの程度であるとは思えない。山田悠介に詳しい高校生だったら、『93番目のキミ』は不出来な作品で、もっとおススメなのは別にあるよ、と言うかもしれない。

高校生に人気のある作家を読んでみるシリーズ③

林真理子が高校生に人気があるのか、実は僕はよく知らない。でも、僕がこの本を読んだのは、高校生に勧められたから、いや、正確に言えば、勤務校の図書委員会が発行している図書館報の最新号のなかに、図書委員の生徒の、この本を紹介する文章が載っていたからだ。
それを読んだ僕はその日の仕事帰りにさっそく本屋で購入して読み始めた。読み始めるなり、引き込まれて、ぐんぐん読み進んだ。なるほど、これは人に勧めたくなる本だ。ヒロインの女性の、結婚して家庭に収まるよりも、自分の好きを追求して生きていこうとする姿など、今放送しているNHKの朝ドラと重なってくる要素が多い。また、ヒロインが目まぐるしく変化する周囲の状況に振り回されながらも、負けじと試練を乗り越えていくところは、テレビの連続ドラマ向きのストーリーなのではないか。(そう思って検索してみると、やはりそうだ。2003年にテレビドラマ化されてNHKで放送されていた。)
テレビドラマでは、先が気になるところで途切れて、次回の放送までの一週間をもどかしい思いで過さなければならないが、小説だと最後まで一気に読み切ることが出来る。高校生の皆さん、これは絶対おススメですよ!

筆者の問題意識はどこに?

今回は、各章ごとに要旨をかいつまんでまとめてみた。ところが、最終章の最後の一文がそれ以前の内容とうまくつながらない。
そもそも、「詩はどこに生まれるか」というのが頭書の問題意識だったと思われるのが、一茶を論じるあたりから、少しずつ論点がずれてきて、「俳句の大衆化と、それに伴う問題点」へと話題の重心が移ってしまったようだ。(それはそれで興味深いテーマなのだが。)
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第一章 転換する主体
「俳」の意味する滑稽、戯れとは、ある人が別の誰かに成り代わって演技し、詩を作ることだ。
第二章 切れの深層
歌仙において句と句の間に起こる主体の転換は、発句ではその内部にある切れがもたらす間のうちに起こる。
古池や/蛙飛こむ水のおと
第三章 空白の時空
一物仕立ての句では、句の前後の切れによって主体の転換が起こる。丸ごと一句が現実の世界から切れるのだ。
/秋深き隣は何をする人ぞ/
第四章 無の記憶
詩歌は、作者が作者自身を離れて(役者が役になりきるように)詩歌の主体となりきって作られる。そのとき詩人は、我を忘れてポーっとして、空白の時空に心を遊ばせる。空白の時空とは言葉以前の世界、永遠の静寂であり、それへの郷愁こそが詩歌なのだ。
第五章 新古今的語法
新古今的語法とは、言葉を大胆に切断し、結合させる語法で、俳句の取り合わせとはこの「言葉の切り結び」の最少単位だ。
第六章 禅の一撃
通常の言葉の論理では真理に到達できないという禅の思想が新古今的語法につながった。禅も俳句もシュルレアリスムも、言葉以前の静寂への郷愁が姿を現したものだ。
第七章 近代俳人、一茶
古典を踏まえた俳句から、日常の言葉による大衆の俳句へと転換させた一茶から、俳句の近代は始まる。子規は近代俳句の創始者ではなく中継者だ。子規は写生を唱えたが、写生は言葉の想像力を表現する方法の一つに過ぎない。
第八章 古典主義俳句の光芒
蕪村の郷愁は近代につながるが、古典主義俳句の最後の人と位置付けるのがふさわしい。
第九章 近代大衆俳句を越えて
大衆を束ねる指導者として客観写生を唱えた虚子と、俳人虚子とを同一視するのは誤りである。虚子は心を自由に遊ばせて句を詠んでいる。蛇笏も、龍太も、楸邨も、その作品は言葉の想像力の賜である。高度成長と共にあった俳句の大衆化がもたらした批評の喪失という現実を直視しなければならない。

光源氏の「耐える能力」

ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」、あるいは「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味するという。詩人、キーツシェイクスピアについて語る中で使った用語だそうだ。

筆者は、紫式部シェイクスピアに比肩できるほどネガティブ・ケイパビリティを備えていたという。

物語を光源氏という主人公によって浮遊させながら、次々と個性豊かな女性たちを登場させ、その情念と運命を書き連ねて、人間を描く力業こそ、ネガティブ・ケイパビリティでした。もっと言えば、光源氏という存在そのものがネガティブ・ケイパビリティの具現者だったのです。この宙吊り状態に耐える主人公の力がなかったら、物語は単純な女漁りの話になったはずです。

確かに、光源氏は物語のごく初期の段階で、藤壺と関係を持ってしまう。そのことによる罪の意識を抱えながら、ある種、宙ぶらりんな状態に耐えつつ、延々と生きていくのだ。

「あはれの文学」「をかしの文学」という言い方があるが、「あはれ」はネガティブ・ケイパビリティと、「をかし」はポジティブ・ケイパビリティと対応するのではないか、などと思いついたが、どうだろう。