読まない読書、読めない読書

昔読んだことを全く忘れている」という経験を綴った渡辺一夫の文章を引いた後で、「読んだ本の大部分が読まないのとだまったくおなじ結果になっているのは、ぼくもおなじだ」と語る管と、完全な読書は不可能であることを繰り返し述べる永田とは、ほぼ同じ読書観の持ち主であるように思われる。

ほぼ同じ時期に、続けてこれらの本に手を伸ばした僕自身の、本に対する思いもまた同じようなものだ。確かに本は読めない、いや、読んだとしてもほとんど忘れてしまう。覚えているのはほんの1パーセント、いや、限りなく0パーセントに近いと言ってしまっても良いだろう。

こんなことは前にもあって、このブログにも書いたような気がするが、以前買って読んだ本と同じ本をまた買ってしまった。(今回のは具体的には、千住博の『絵を描く悦び』だ。)買ってすぐ読み始めて22ページまで来たところで、何となくこのブログ内を検索してみたら、この本を読んで書いた記事が見つかった。検索する気になったのは、虫の知らせのようなものがきっかけであって、読んでいるうちに以前読んだような気がしてきたから確かめた、というのではない。つまり以前読んだ内容を、ほぼ100パーセント忘れてしまっている。しかし、一度読んだ本を、それとは気づかずにまた最後まで読んだとして、それが無駄な行為であるとは思わない。タイトルに惹かれ、目次に目を通して、今読むべき本と判断し、読み始めたことに間違いはなかった。しかし同じ本を2冊所有する必要はない。今回の220円の出費は無駄であった。(神保町の古本屋で見つけて買ったのです。)

ところで、永田の、情報の濁流の中に自律的積読環境=ビオトープ的積読環境を構築すべきであるという主張には賛同できる。それは未読の本を貯め込んでいるうしろめたさを和らげてくれもする。しかし、最後の章に書かれている通り、ビオトープは定期的な断捨離=新陳代謝を必要とすることを忘れてはならない。それは本を死蔵させているだけの状態にすること=蔵書のゴミ屋敷化を防ぐために必要なのだが、同じ本を2冊買ってしまう失敗を防ぐことにもつながりそうだ。

 

季語の奥深さ

片山由美子『季語を知る』は、季語の世界の奥深さ、難しさを教えてくれる。歳時記にあるから、季語として使えると安易に考えてはいけない。季語の形を不用意に変えてもまずい。例えば、

〇「花びら」が桜のものとは限定できない。連句では「花の座」で桜を詠むことが原則だったので、桜のものと解された。独立した一句では「花びら」を桜とする根拠がなく、季語としては極めて弱い。

〇「春愁」「秋思」は漢詩から来た言葉。その調べの良さに注目したい。「春の恨み」「春かなし」は言葉としてこなれていない。無理に作った言い換え季語は定着しない。

〇「囀る」に助動詞「り」を付けて「さへづれり」になることからの類推で、「もみづ(=紅葉する)」を「もみづれり」とするのは誤り。「り」は四段活用かサ変動詞にしか付かない。「もみづ」は上二段活用。

〇「秋高し」は使用頻度の高い季語だが、その由来を知っておいたほうが良い。秋になると北方騎馬民族が肥えた馬を駆って、収穫期を迎えた耕作地を襲撃するという、中国の故事に基づく。

 

「百閒の良さを知ってほしい」は新しい言い方であるらしい。

内田百閒『北溟』(旺文社文庫)を読んだ。

どれもこれも、味わい深い文章ばかり。

「流行語」を読むと、言葉は時代とともに変化するのだということを知らされる。内田百閒によると、「早く帰ってほしい」というときの「…てほしい」という言い方は、当時の流行であって、受け入れられないものらしい。

「殺されて恨めしい」「喰ひ過ぎて苦しい」「離れて遠き満州」等の慣用は、下の部分の形容詞が、上の動詞語と原因結果の関係でつながつて居り、助動詞の「て」にその一句の段落がついてゐるが、それと同じ形の「殺して欲しい」には上と下とに意味のつながりがない。「欲しい」を助動詞の様に用ゐて、同類の「て」に連用しようとするのだから、無茶であり、国語の混乱のいい標本である。

ここまで言って百閒の嫌っているこの言い方、現代のわれわれからすれば全く違和感のない普通の言い方であるが、電子版の『スーパー大辞林3.0』には次のような説明がある。

②(補助形容詞)動詞の連用形に接続助詞「て」の付いたものについて、相手に自分の望むことを求める気持ちを表す。近世以降の用法。…てもらいたい。

近世以降の用法」とあるから、百閒の時代には存在したけれどもまだ定着していなかったということなのだろう。耳慣れない新しい言い方に拒否感を覚えるというのは僕も同じなので、百閒の気持ちはよくわかる。

ところで、『日本国語大辞典』には『好色五人女』の「生つきたる鼻を高ふしてしてほしひ」という用例が載っている。僕にはこの「高ふ」「ほしひ」の仮名遣いは「高う」「ほしい」が正しいのではないかと、そっちの方が気になってしまった。

『コンビニ人間』を超える衝撃作?

『コンビニ人間』に続く『地球星人』は、同じ作者による作品かと思うほどの変貌ぶりだが、世の中の当たり前を疑おうとする作者の問題意識は共通している。しかし、『コンビニ人間』に比べて、読者の意識改革を促す力は弱い。というのは、『地球星人』は多くの読者のレビューが指摘しているし、作者自身もインタビューで語っていることだが、グロテスクな描写が前面に出てきてしまい、それに対する拒否感情が読者を覆ってしまうことで、かえって世の中の常識を疑うという問題提起の方が霞んでしまうようなのだ。小説なのだから、難しいことを言わず楽しめればそれでよいとも言えるが、残念ながらエンタメとしても、期待に応えてくれるものにはなっていない、というのが僕の率直な感想。『コンビニ人間』は生徒に紹介したい本のリストに加わったが、『地球星人』の方は、そうはならない。が、一方で生徒がこの作品をどのように受け止めるか知りたい気もする。案外、面白いという感想を持つ子も多いかもしれない。

 

「○○人間」として生きる

村田沙耶香『コンビニ人間』を読んだ。

これは、二つの点で身につまされる話だった。

この小説の主人公の古倉恵子がコンビニ人間としてしか生きられないように、「○○人間」としてしか生きられない人がいる、という点で。

もう一つは、古倉恵子の周囲の多くの人たちがそうであるように、人は自分が「普通」であることに安心を得ようとするだけでなく、身近な他人に対しても普通であることを強要するという点において。

古倉恵子がコンビニ人間なら、僕はさしずめ「学校人間」といったところだろう。また、自分が普通かどうかを常に気にかけているし、周囲の人間に対しても普通からはみ出すことを許容しがたく思っていることは否定できない。

季語と写生と生きること

青木亮人『教養としての俳句』は、NHK出版から出ている「学びのきほん」シリーズの中の一冊。同じシリーズの『感性でよむ西洋美術』が良かったので、こちらも期待して読み始めた。

第1章で一茶までの俳句の歴史をざっくりと概観し、第2章以降は子規、虚子を主に取り上げつつ、「写生」「季語」に絞って俳句を語るという、かなり割り切った構成。切れ字とか定型についてはほとんど触れられていない。限られたページ数の中で俳句の本質に迫るためには、あれもこれもと欲張らずに、このように焦点を絞るのが得策であると考えたのだろう。その狙いは成功している。
「写生」という方法は、子規や虚子の挫折の経験から生まれたという見方は面白い。また、「季語」については、俳句におけるその効用という捉え方でなく、人が生きる上でそれがどのような意味を持つか、という視点で述べられる。

筆者の「写生」観は、次のようなところに表れている。

俳句史上の偉人とされる子規や虚子は、ともに憧れた小説家を諦め、様々な挫折や諦念を経た末に俳句の道を歩んだ人々でした。かような彼らの「写生」句は、人間社会のあれこれをそ知らぬ顔でやりすごし、眼前の小さな自然や些事を淡々と描き、それで満足したという側面があります。
それは一種の現実逃避であると同時に、「私」が生きていることのささやかな確認でもありました。

また、季語の持つ意味については、次のように語られる。

私たちが日常的に実感している季節感を明確に認識し、その季節にしかない情趣を豊かに膨らませる契機となるものを季語は秘めています。それは、私たちの生活の見方そのものを変える可能性を持っているのです。

そしてこうした写生、季語の捉え方は、次のような俳句観を導き出す。

市井の私たちは、世間や自分の人生と何とか折り合いを付けながら暮らしています。うかくいかないことはいくらでもありますし、自分の不甲斐なさに落ち込んだり、なぜこうも不平等なのか、と天を仰ぎたくなることも少なくありません。(中略)
それらを避けられないものと諦めながら、それでもなお生きようとする時、小さな詩型の俳句が黙って差し出す「笑い」や「驚き」、そして「喜び」にはしみじみと感じるところがあるのではないでしょうか。

俳句実作者による、俳句作法に重点を置いた俳句入門と異なり、作者も読者も包摂した視点から、俳句と親しむことと生きることがどう結びつくのかを論じた本書は、「学びのきほん」シリーズに加えるのにふさわしい一冊だと言えるだろう。

現代思想に慰められる

現代思想について理解したいという知的好奇心から読み始めた本書に、慰められ、力づけられることになるとは、思いがけない経験だった。
僕が慰められたというのは、デリダの考え方について説明している第一章の終りの方の、次の箇所だ。

確かに人は、物事を先に進めるために、他の可能性を切り捨ててひとつのことを選び取らなければなりません。しかしそのとき、何かを切り捨ててしまった、考慮から排除してしまったということへの忸怩たる思いが残るはずです。そしてまた、そのとき切り捨てたものを別の機会に回復しようとしたりすることもある。

人が何らかの決断をせざるをえないということは「赦す」しかないのです。決断の許諾とそれが排除しているものへの批判は、仕事をし、社会を動かしていかざるをえないという現実性においてバランスを考えるしかない。そしてそのバランスをどうするかに原理的な解決法はないのです。ケース・バイ・ケースで考えるしかない。

未練込みでの決断という倫理性を帯びた決断をできる者こそが本当の「大人」だということになるでしょう。

僕はこの箇所を、何度も読み返し、今の自分を肯定してくれているものとして受けとめた。そうか、ルールに従ってスパっと決断していくのではなく、バランスを考慮しながら個別のケースごとに判断していけば良いのだな。そしてその判断は、何かを切り捨てることにならざるを得ず、そのことによって忸怩たる思いが残るものなのだ。…これはあるいは僕の誤読であって、自分に都合の良いように曲解しているだけなのかもしれないのだが。しかし、たとえ誤読であったとしても、自分の人生にプラスになったと実感できる本に出会えたのは、良いことだったのではないか。
ところで本書は僕を慰めてくれてばかりではなかった。むしろ、自分の能力のなさを思い知らされることも多かった。つまり、書かれていることの多くが僕の理解力を越えていることを、痛切に感じさせられたのである。しかし、この点でも筆者は次のように述べてくれている。

哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました。

こう言われれば安心する。プロでもそうなんだ… しかし、重ね塗りするように何度も読む、ということが僕には難しい。同じ本を何度も読むよりも、新しい本に次々に目移りしてしまうから。