釘ん句会のメンバーの方からお借りして読んだ一冊。
この小説は「わたし=曾良」の視点から描かれており、芭蕉も「わたし」の目にはこんな風に映る。
翁と過ごしていると、矛盾、不一致、歪さを、無数に味わう。わたしにとって翁は大いなる謎だ。歩く混沌といったふうだ。
旅も終盤を迎えようという頃の「わたし」の感懐である。俳聖とも呼ばれる芭蕉だが、「わたし」から見た芭蕉は、決して聖人でも君子でもない。「がまんできない」芭蕉はむしろ厄介なわがままじじいだ。しかし、「わたし」にとって、旅を通して次第に俳諧の地平を広げていく芭蕉は大きな、魅力的な存在なのである。
「わたし」は芭蕉を超えることなどできない。いや、それどころか「わたし」は並みの俳人にさえなれない。「わたし」の自己評価はとても低い。
俳諧を愛する一介の人物として生きようと、月山にて心を固めたが、上手になることをあきらめたわけではない。よりよい俳諧を作れるようになりたいと、どんな瞬間にも考えている。なのになんの上達もできていない。
翁との二人旅のおかげで、俳諧の良し悪しは見極められるようになった。芭蕉の真髄についてだって語れるようになった。
けれど、じゃあ、おまえはどんな句が作れるのかと問われれば、たいしたものは作れない。目利きが良くなるばかりで腕前が上がっていない。
全編を通してこの調子。俳人としての自分に対するまなざしは極めて厳しい。これはどういうことか。曾良に対する客観的な評価を踏まえて、このような人物設定となったのだろうか? 「卯の花をかざしに関の晴着かな」などの句で文学史に足跡を残す曾良ではあるが、確かに同門の其角などと比べれば、扱いは軽い。しかし、これでもかというほど自己否定的な言葉が出てくるのはなぜだろう?
わたしはつまらない人間だ。無駄にまじめである。
こんな曾良は、同じくネガティブな発言をしがちな僕には、他人のようには思われない。もちろん、僕にとってはこの小説の主人公は芭蕉ではなく、曾良である。曾良に共感できるから、この小説を面白く読むことができた。
あるいは、作者もまた曾良に乗り移ることで、この小説を書き進めることができたのかもしれない、とも思う。曾良のせりふに作者の肉声が重なって聞こえてくるような気がしたのは、僕だけだろうか。