小川哲『言語化するための小説思考』を購入。
仕事に役立ちそう(=授業のネタになりそう)とか、俳句作りに応用できそう、との判断が本の購入の決め手になることがある。これを買う時もそうだったが、もう一つ決め手になったのは帯に書かれた「東大で一番売れた本!!」という文句だったかもしれない。「東大生が一番読んだ本」とか、僕はどうもそういう言葉に弱いような気がする。東大生に負けてなるものか、という意欲がまだ僕の中に残っているのだと考えれば、悪いことではないのかも。ま、そのあたりの話は置いといて…
著者は、小説は作者と読者のコミュニケーションであるという。しかし、それはいつも円滑に行われるとはかぎらない。小説は「誤読」を生み出す。
読者が作品から何を感じとるのかを、作者が完全にコントロールすることはできない。しばしば、読者は作者が想定していなかった要素と自分の人生を結び付け、文章の意味を過剰に読みとってしまう。作者の脳内から誕生した物語が、「誤読」によって読者の経験に接続し、「情報を伝達する」というコミュニケーション本来の役割を逸脱し、そこに存在しないはずの意味が呼び起こされることがあるのだ。(76㌻)
この部分だけを取り出して読むと、「誤読」は否定的に語られているように思われる。それも、どちらかと言えば読者の側に落ち度があるかのような書き方だ。しかし、「誤読」という言葉が再び登場する次の一節を読めば、著者が「誤読」を肯定的に捉えていることがわかるだろう。
読者はそれぞれの解凍プログラムを持っているので、作者が提示した作品が、最初に作者が表現しようとした「人間の認知」と異なるものを喚起することは往々にして起こり得る。この現象を僕は「誤読」と呼んでいて、多くの人に支持される作品はこの種の「誤読」を誘発する傾向にあると思っている。「私(作者)の物語」が、「私(読者)の物語」に転換され、作品が読者の豊かな人生と結びつき、本来のポテンシャルを超えて受容されていく現象だ。(145㌻)
ここに語られていることは小説に限ったことではなく、文学全般(いや、芸術全般)に言えることだ。例えば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」がどれだけ多くの「誤読」を生み出しているかを想起してみればよい。







