木の家、石の墓

昨年9月に新しく開館した神奈川県立図書館に初めて行ってみた。

読むのは書架で見つけた小川軽舟の句集『朝晩』とすぐ決まる。さて、これをどこで読もう。館内に閲覧用のスペースはたくさんあって、どこに座ろうかとうろうろしたが、今日は、3階の、港方面の眺めがよくて、座り心地の良さそうなソファの並ぶリーディングラウンジに落ち着く。

一度通読して、二度目には好きな句を手帳に書きとりながら読んだら、一時間以上時間が経っていた。手帳にはちょうど10句並んだ。

  梅雨の日々ジャージでゆるく暮らしたく

  梅咲いてユニクロで買ふもの軽し

小川軽舟は、この「ゆる」さ、「軽」さがいい。といっても、もちろんゆるくて軽いばかりではない。

  若者の貧しさ眩し更衣

  ひぐらしや木の家に死に石の墓

筆者は「木の家に住み」も考えた、かどうかはわからないが、僕だったら「住み」としてしまいそう。「木の家に死に」でかえって、そこに生きていた日々の重さに思いが至る。

  寒晴や海におどろく町の川

  おるがんは雲踏むごとし春惜しむ

擬人法、比喩がイメージを生き生きと伝える。「おどろく」「おるがん」のひらがな表記にも納得。

 

『ツバキ文具店』の続編も読んでみた。

ツバキ文具店』が良かったという話を教室でしたら、自分も読んだという生徒がいて、続編の『キラキラ共和国』もぜひ読んだほうが良い、と勧められたので、さっそく読んでみた。

なるほど、これもまた、気持ちが優しくなれるようないい話。

歳の差婚だったり、子連れ婚だったり、いろいろな形の幸せのつかみ方があることを知らされる。そして、主人公、鳩子の前向きな生き方に共感。

(それにしても、善人ばかり出てくるメルヘンを素直に受け入れてしまっている自分が意外だ。二冊を続けて読むうちに、現実の鎌倉とは別の、理想化されたもう一つの鎌倉の町が自分の中にできて、両者の境界が曖昧になっている。)

自分の揺れが収まってから

1月7日の「朝日」の読書面で「売れてる本」として紹介されていた本。

聞くことの難しさは日々痛感するから、「聞く技術」はわかるけど、「聞いてもらう技術」って、何? という疑問も、読んでみて納得。聞いてもらうことで心に余裕ができる、それが心にスペースを作り出して、今度は人の話を聞いてあげる側に回ることができる。なるほど。自分がいっぱいいっぱいの状況では、人の話を聞くどころではないというのは、その通りだと思う。「聞く」と「聞いてもらう」はぐるぐると循環する。聞くために、まずは聞いてもらうから始めるというのは、一つの考え方だ。

自分自身が危機のただなかにあるときは、うまく他者のことを理解できません。

自分の地面が揺れているときには、そこにあるのが相手の揺れなのか、自分の揺れなのかわからなくなってしまいますよね。自分の揺れが収まると、相手の揺れがきちんと見えるようになる。

こんな具合に、比喩も卓抜。売れている理由は、こんなところにもあるのかも。

ほかにも、孤独と孤立は違うとか、世間知と専門知が補い合うとか、なるほどそうだと頷ける部分が多かった。

違和感が支える現実感

穂村弘の『短歌の友人』を読んだ。

  くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを   吉川宏志

について、筆者は次のように言う。

「かたむけり」が一首にリアリティを与えている。現実には真っ直ぐであっても「かたむけり」と書くことで「実感の表現」が可能になるとも云える。「大きく」ではなく「かすかに」かたむいていることも重要だ。違和感が小さければ小さいほど読者の受け取る現実感は逆に大きくなる。

筆者はさらに、

  おさなごの椅子の裏側めしつぶの貼りついており床にしゃがめば  吉川宏志

の「めしつぶの貼りついており」

  所在なき訪問客と海を見るもろもろペンキはがれる手すり  東直子

の「もろもろペンキはがれる」も「具体的で小さな違和感」で、これが「本当にあったことだ」という現実感を支えるのだ、という。

僕はこの「小さな違和感」を「発見」とか「気づき」とかと言い換えてもいいのではないかと思う。言われてみればそうだという、些細な事実や出来事への気づき。小さかったり「かすか」だったりするからこそ、ありふれた事柄であるにもかかわらず、気づきにくい。そこに気づいて言い留めたことが驚きとなり、読者の共感を得ることができる。

俳句において、しばしば「写生」の重要性が説かれるのは、それが小さな「発見」に至るための一つの方法として有効だからだろう。上に挙げた歌はいずれも俳句的。それらにみられる「違和感」はいずれも俳句形式の中で生かすことも可能な性質のものだと感じさせる。

「炉端を出る」生き方

現代文の教科書中にある「コスモポリタニズムの可能性」という評論は、僕にとってはとても興味深く刺激的な文章だ。その出典となっている『境界の現象学』は、今は簡単には手に入りにくい状況のようだが、幸い勤務校の図書室にあったので、読むことができた。

「コスモポリタニズムの可能性」の中で、著者、河野哲也は、狭い地域、家庭に留まって安定性を志向するヘスティア的生き方と、そこから世界に乗り出して経験し、成長していくヘルメス的生き方を対比し、次のように言う。

特定の共同体の中で、その在り方や習俗をそのまま受け入れて生きることは、炉端にとどまることである。特定の場所に生まれて住むことは、人間の生存や社会の紐帯にとって必要ではあるものの、そこにとどまり続けることは万歳三唱するほどの価値もまたない。

「万歳三唱するほどの価値」がないとは、手厳しい。僕は安定志向の強い自分の生き方を強く叱責されたような気がした。

「炉端を出る」ことは経験すること。経験は思考を誘発する。思考は無関係なものに関係性をつける、あるいは関係性を見つけることだ、という説明も面白いと思った。

月夜の石

  いにしへのてぶりの屠蘇をくみにけり

  うすら日の字がほつてある冬の幹

  時差通勤ホームの上の朝の月

  わが頬にゑくぼさづかり春隣

  みなそこにひまなくならぶ月夜の石

  木枯しや坐せば双つの膝頭

  この暑さ町に看板ごてごてある

  炎天のポストは橋のむかふ側

 

僕のお気に入りの句を並べてみたら、このようになってしまった。鈴木しづ子とはこういう俳人です、という文脈の中では出て来そうもない句ばかり。これでは、巷間に伝わるような鈴木しづ子像は浮かび上がってこないだろう。でも、これらの句は、作句時の作者の心のありようをありありと伝えているのではないか、とも思う。

鎌倉へ

面白そうな本はないかと図書館の棚を探っていると、「鎌倉案内」の文字が視野に飛び込んできた。よく見ると『ツバキ文具店の鎌倉案内』という薄っぺらい文庫本。開いて中を覗いてみると、「本書は、小川糸著『ツバキ文具店』と続編『キラキラ共和国』に登場する実在のお店や神社仏閣を紹介しています」とある。楽しそうな感じのイラスト付き。家に帰ってゆっくり読みたい。鎌倉を舞台にしたという『ツバキ文具店』も見つかったので、両方借りて帰る。

鎌倉は何度行っても、興味の尽きないところ。数日後、さっそく鎌倉へ。『ツバキ文具店』の主人公のポッポちゃんが初詣に行くという、由比若宮(元八幡)をお詣りしてから、材木座海岸へ。海を見ながら、レンバイ(鎌倉市農協連即売所)の中のケーキ屋で買ったフルーツケーキを食べる。


昼食は、地元の人に愛されているというカレー屋キャラウエイで、と思っていたが、入店待ちの長い列ができていたので今回は諦めた。平日だというのに、鎌倉は人が多いな。

『ツバキ文具店』は心がふっくらと温まる、よい話。読んでいる自分の中に、人に対する寛容な気持ちが芽生えてきていることを感じた。高校生に勧めたい。