前回、「二人して交互に一つの風船に息を吹き込むようなおしゃべり(千葉聡)」という短歌を取りあげた。卓抜な比喩を用いた秀句だと思う。なんだか幸せな気分にさせられる。
風船と、おしゃべり…
今日の「朝日俳壇」には、こんな句が載っていた。(高山れおな選の第1席)
しやべるだけしやべつて妻は風船に 宮野隆一郎
おしゃべりだった妻が遠い世界に旅立ってしまった寂しさを詠んだ句だと解釈してしまった僕には、選者の評「夫婦の行き違い?を描く超短編アニメーションの趣き」がどうしてもピンとこない。
『折々のうた』を読む面白さの一つは、並んでいる作品と作品のあいだのつながりを見つけ出す、というところにある。つまり、連句を読む面白さのようなものだ。『新折々のうた6』では、こんなことがあった。
限界にみな挑戦す踊子は跳ねとび僧は坐りつづける 岩田正
この歌のすぐ後ではなく、二つの短歌を挟んで、次の歌が出てくる。
女子フィギュアの丸きおしりをみてありてしばしほのぼのと灯れり夫(つま)は
馬場あき子
岩田正と馬場あき子は夫婦。そうすると、岩田の詠む「踊子」とは、3回転ジャンプに挑むフィギュアスケーターのことなのかもしれないと思う。二人は同じテレビ画面を見て、それぞれの歌を詠んだのではないか。
そして、馬場あき子に続くのが次の歌。
二人して交互に一つの風船に息を吹き込むようなおしゃべり 千葉聡
これは若い作者で、この歌だけ読めば、ここに詠まれている「二人」も若者のように思われる。友達同士か、恋人同士か、若い二人のたわいもないおしゃべりは、いつまでも途切れることがない。しかし、岩田・馬場夫妻の歌を読んだ後では、おしゃべりは若い二人のものだけとは限らないと考えが変わる。長く続いた夫妻での作歌活動も、二人で「一つの風船」を膨らますおしゃべりのような営みだったのではないか。
斎藤茂吉の『万葉秀歌(上巻)』を読んだ。言わずと知れた、戦前からのベストセラーである。
特攻隊員が携えて戦場に向かったという話をどこかで聴いたことがあった。確かに、天皇賛美の色合いは濃い。しかし、それはこの本の要素の一つに過ぎない。茂吉が格別に高く評価しているのは、柿本人麻呂である。
僕はこれを『万葉集』入門の書にとどまらない、詩歌鑑賞へのよき手引き書、作歌作句をたしなむ者への指南書として面白く読んだ。
柿本人麻呂
この歌の上の句は序詞で、現代歌人の作家態度から行けば、寧ろ鑑賞の邪魔をするのだが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全体の声調的効果として受納れねばならぬ。そうすれば豊潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切実峻厳、且つ無限の哀韻を感得することができる。
苦しくも降り来る雨か神(みわ)が埼狭野(さぬ)のわたりに家もあらなくに
長奥麻呂
「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。
鼯鼠(むささび)は木ぬれ求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも 志貴皇子
この歌には、何処かにしんみりとしたところがあるので、古来寓意説があり、徒らに大望を懐いて失脚したことなどを寓したというのであるが、この歌には、鼯鼠の事が歌ってあるのだから、第一に鼯鼠の事を読み給うた歌として受納れて味うべきである。寓意の如きは奥の奥へ潜めて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。
『万葉集』には、今歌われるべきうたの、参考にすべき点が多く見いだせるように思う。そこに古典と呼ばれるものの大きな存在意義がある。
『家飲みを極める』という書名を見れば、誰でもこれはコロナ状況下に合わせて企画された本に違いない、と早とちりしそうだが(僕はそうだった)、第一刷発行は2016年5月、コロナとも「ステイ・ホーム」とも無関係なのだった。
「プロローグ」によると、「日本に家飲みブームが到来したのは2009年前後」と言われ、その一番の理由は「外飲みのために使えるお金が減ったため」というのだから侘しい話だが、筆者は家飲みの魅力を「料理する工程そのものを『つまみ』として堪能できる」という点に見出し、積極的に家飲みを楽しもうとする。
枝豆のゆで方やジャガイモの蒸かし方、玉葱の辛みの抜き方について、うまく行ったりいかなかったりという実践に基づいてあれこれと蘊蓄を傾ける、その語り口は少々理屈っぽくて堅苦しいが、不思議と読者を引き付けるのは、筆者自身がその工程を楽しんでいるからか。仕事帰りの電車の中で読み始めれば、その時から家飲みは既に始まっている、そんな気分になれる本。
学校の図書室で借りて、『日本文学100年の名作 第10巻』(新潮文庫)を読んだ。
伊集院静、木内昇、道尾秀介、桜木紫乃、高樹のぶ子、山白朝子、辻村深月、伊坂幸太郎、絲山秋子…読んだことのない作家が並んでいるが、どんな作品を書く人たちなのだろうと、興味が湧いたのだ。道尾秀介、辻村深月、伊坂幸太郎は高校生にもよく読まれているんじゃなかったか。図書室の棚にたくさん並んでいるのを見たような気がする。
今回の第10巻から始めて、第9巻、第8巻と、だんだん発表が古い方へと遡っていくのも面白そうだと思ったのだが、その前に、高樹のぶ子や伊坂幸太郎の作品をもっと読んでみたい気もするので、第1巻まで読むとしても、そこにたどり着くのは、だいぶ先の話になるだろうな。(もっとも、図書室にはなぜか第1巻だけが見当たらなかった…)
明日、図書室に行く時間があったら、第10巻を返却して、替わりになにか借りてこよう。
【 収録作品】
小川洋子「バタフライ和文タイプ事務所」/桐野夏生「アンボス・ムンドス」/吉田修一「風来温泉」/伊集院静「朝顔」/恩田陸「かたつむり注意報」/三浦しをん「冬の一等星」/角田光代「くまちゃん」/森見登美彦「宵山姉妹」/木内昇「てのひら」/道尾秀介「春の蝶」/桜木紫乃「海へ」/高樹のぶ子「トモスイ」/山白朝子「〆」/辻村深月「仁志野町の泥棒」/伊坂幸太郎「ルックスライク」/絲山秋子「神と増田喜十郎」
こんな本を読んだ。
play the piano
のように、楽器を演奏することを言うときは楽器名にtheをつけるのがルールであると習ったことはしっかりと覚えている。
でも、今は
I play piano in a jazz band.
のように、冠詞をつけない言い方が広がっているそうだ。冠詞をつける言い方も、つけない言い方もどちらもあり、というのが現状らしい。
go to school
という言い方と同じ感覚だという。かつて、piano の前にはtheをつけなければ間違い、と教えていた学校が間違っていたわけではない。言葉は変化するのだ。
この本には、そういう例がいくつも挙げられている。知識とか常識というのは、常に更新していかないといけないということですね。
今週から授業で取りあげようとしている現代文の教材「世界はいま―多文化世界の構築」は青木保の『多文化世界』(岩波新書)の序章からの抜粋だ。
この著作が世に出たのは2003年。それ以後、今日まで、世界には様々な動きがあった。もはやこの著作が古びてしまった観があるのは否めない。
クリントン前大統領は日本でもテレビに出演して日本の学生や一般の人たちの質問を受けたことがあります。あのような態度を見ると、こうした指導者のいるアメリカは信頼できるんだという気持ちがどこかで生まれるとも言えるでしょう。
こうした部分を読むと、あの時代から世界は遠く隔たってしまったのだと思わざるを得ない。
民主主義は死んだといわれ、強い指導者が待望されるようになった。イスラム国が世界を震撼させ、テロの危険に常に脅かされるようになったのもこの著作以後のこと。そして今、世界は新型コロナウイルスに翻弄されている。
しかし、この著作において著者が理想として掲げる世界像(=多文化世界)に修正が必要であるとは思わない。
「多文化世界」とは、単に世界にはいろいろな文化があって、それが重要だ、といった認識にとどまるものではありません。それぞれの文化が、文化度を高める積極的な努力をすることによって、一つのグローバルな世界を構築していくという意思の表れとなる世界が、「多文化世界」です。
世界は大きく様変わりしてしまったが、「多文化世界」という看板を下ろす必要はない。しかし、その理想の実現への道筋は2003年当時と比べて一層厳しくなってしまっていると言わざるを得ないのではないか。