BGMのない映画

映画、「ドライブ・マイ・カー」を観た。

コミュニケーションには、その場所の力というものが働く。
食卓、車、閨房…
とりわけ、この映画においては車が登場人物の台詞を引き出し、登場人物同士の会話を深めるのに大きな働きをする。
原作には、主人公の家福は車の中で、ベートーベンの弦楽四重奏をよく聴くと書かれている。僕は、映画の中でもこの曲がかかるのではないかと楽しみにしていた。それは期待通り、かかったことはかかったのだが、車の中のカセットからではなく、家福の自室のレコードプレーヤーから聞こえて来たのであった。第3番の1楽章、美しいメロディだ。
映画では、家福は車の中で音楽を聴かない。もっぱら妻の声で吹き込んだ、脚本の朗読を聴いているのだ。その習慣は妻が死んだ後も変わらない。妻とのコミュニケーションは妻の死後も続いている。
この映画には、BGMとしての音楽は一切使われない。音楽は、その場面の内部に音源が存在するときにしか聞こえてこない。外部から音楽が降ってくることはないのだ。
この映画の中では、大きくて刺激的な音が鳴ることも少ない。印象に残ったのは、車が接触事故を起こす時の衝突音と、芝居の舞台上でピストルが撃たれるときくらい。家福の車のエンジンは不快な音をたてない。

実に静かな映画だ。
そういえば、家福の死んだ妻の名前は音というのだった。

漢字の負の側面

この本は、2011年に『漢字が日本語をほろぼす』という書名で、角川SSC新書の一冊として出された。それを講談社学術文庫に加えるに際して、「ちょっと過激」にひびく書名を改めたのだそうである。読んでみると、もともとの書名にひかれて読み始めた読者の期待を裏切らないような内容になっている。

漢字をたくさんおぼえて、古典に学んだ知識にもとづいてそれを駆使することが、すなわち学問をするということだ、ということをそのまま体現したのが、朝鮮や日本の学問のありかただった。漢字をたくさんおぼえることが出世と地位の獲得にまっすぐつながるという、何百年も続いたこの伝統が、学問を常に保守と反革命、反人民的特権思想の巣クツにしてしまったのである。こんなところで行われる学問の役割は、何か新しいことを発見し、つくり出すというよりは、既存のサベツを固定化し古い伝統的な知識を固くまもって、煮つめたサベツのパッケージを後世に伝えるだけのことになる。

こんな調子なので、この人の考え方は少々偏っているのではないか、田中克彦というのは変なおじさんのようなので気を付けたほうが良さそうだ、と警戒心をいだく人もいるにちがいない。しかしこのおじさんは漢字の利点も十分によくわかったうえで、でもその性質を理解しないで使っているとこんな問題につながることもあるのだよ、という具合に、漢字の持つ負の側面について正しく教えてくれているのだ。

この本の内容とはちょっとずれるのだが、昨日の「朝日新聞エデュア」は「漢字学習 どこまで必要?」という特集をやっていて、漢字の書き順や、「とめ・はね・はらい」などの字体に必要以上の正しさを要求する教師の存在を問題視する記事を載せている。たしかに、教師は生徒に対し、正しい漢字という規範に従うことを不当に求めているかもしれない。もちろん、入試で問われるからやむを得ず、という現実もある。入試で×を付けられた生徒から、国語の先生が正しく教えてくれなかった、と恨まれても困る。その意味で、今年、神奈川県の公立高校入試の国語の問題から漢字の書き取りがなくなったことは、進むべき方向への前進と言えると思う。

ともあれ、漢字検定〇級取得、などという資格がもてはやされる風潮に目くじらを立てるつもりはないが、漢字を無批判に礼賛するのではなく、その本質を深く理解すること(そのために田中克彦の少々過激な物言いにも耳を傾けること)は重要だと思う。

同感、のち、違和感

僕の車の中には一年ほど前から、ベートーベン弦楽四重奏曲全集(アルバン・ベルク四重奏団の7枚組)が入れっぱなしになっている。車の中ではラジオを聴くことが多いのだが(主にFM東京、たまにFM横浜)、ラジオに飽きるとCDに替える。ベートーベンのカルテットは車の中で聴くのにふさわしいと思う。初期の作品から晩年の傑作群まで、それぞれの時代の作風を反映した変化があって、ずっとかけっぱなしにしていても飽きることがない。そういう意味では、同じベートーベンのピアノソナタ全集でも良いのだが(実際、グルダの演奏する全集を車に積んでいたこともある)、こちらには、運転するときの気分には似つかわしくない曲も少なからず混じっていると感じる。運転中のBGMには気持ちをリラックスさせてくれるような心地よさをまず求めてしまう。かと言ってあまり単調では飽きてしまって眠気を誘われる。適度な変化と刺激が必要だ。

そんなわけで、村上春樹の『女のいない男たち』を読んでいて、次の箇所に出くわしたときは「おやおや」と思った(「やれやれ」ではなく…)。

帰り道ではよくベートーヴェン弦楽四重奏曲を聴いた。彼がベートーヴェン弦楽四重奏曲を好むのは、それが基本的に聴き飽きしない音楽であり、しかも聴きながら考え事をするのに、あるいはまったく何も考えないことに、適しているからだった。(ドライブ・マイ・カー)

同感だ。しかし、次の箇所に出くわしたときの率直な気持ちは、「またか…」だ。

「…そういうことを考え出すと、自分だけがあとに取り残されていくみたいで、頭がもやもやする。その気持ちはわかるやろ?」
「わかると思う」と僕は言った。(イエスタデイ)

「あなたは空き巣に入ったことってある?」
「ないと思う」と羽原は乾いた声で言った。シェエラザード

なんで、いつも「…と思う」なんだ? どうしても違和感を覚えてしまうところだ。

 

 

短歌の本を生徒に薦めるとしたら、これ。

近代以降の名歌100首を選んで平易に解説した本。100首選出の基準については、「はじめに」で次のように述べている。

できるだけ私の個人的な好悪を持ちこまず、誰もが知っているような、あるいは誰もに知っていて欲しいと思う100首を選ぶよう心がけた。

…となると、当然のことながら、教科書に載るような歌・歌人がここには多く登場する。

与謝野晶子の「なにとなく君に待たるる…」とか、若山牧水の「幾山河越えさり行かば…」とか。

短歌に興味を持って、もっと理解を深めよう、詳しく調べてみようという中学生、高校生が読むのに最適な本だ。

どっち派?(高校生に人気のある作家を読んでみるシリーズ①)

高校生に人気のある住野よるの作品を初めて読んだ。

よるのばけもの   /双葉社/住野よる

主人公のあっちーくん(安達くん)は分裂している。 

クラスの大多数が向かっている方向(矢野さんへのいじめ)からずれないように(孤立しないように)、細心の注意を怠らずふるまう昼のあっちーくんと、ばけものの姿をしているが、思いやりを持って矢野さんと向き合う夜のあっちーくん。 

矢野さんから「人間の姿派? 今のその姿、派?」と問われて答えが出せない。どっちが本物の自分なのか? 

読者は相反する二面性を抱えて悩むあっちーくんに共感を覚えるのではないだろうか。自分の中にも二人のあっちー君がいる、と。 

最後の場面。だれもが無視する矢野さんに、あっちーくんが「おはよ、う」とあいさつを返す場面。唖然とするクラスのみんなは、あっちーくんの中にばけものを見出しただろうか? そのばけものがクラスに新しい風を吹き込むことを予感させて、物語は閉じる。 

よるのばけもの (双葉文庫)

非日常の読書空間

タイトルに惹かれてすぐ読み始め、機知に富んだ文章に魅了されてすぐに読み終えた。面白い! 本を快適に読む空間の確保というのは、本好きにとって重大問題なのだ。

僕たちには本を読むための場所が与えられていない。読むことはできるかもしれないが全面的な歓迎を明示してくれる場所は、ほぼ与えられていない。

そのとおりだと思う。図書館にしても、喫茶店にしても、カフェにしても、長時間ひたすら読書に没頭する場所として作られてはいない。本を読む人は、どうしてもそこでは居心地の悪さを感じてしまう。著者は「今日はがっつり本を読んじゃうぞ~」と思っている人が快適に読書の時間を過ごすための「最高の環境」を提供すべく、「フヅクエ」という店を作った。素敵なアイデアだと思う。こんな店が近くにあったら、ぜひ行ってみたいと思う。

でも…と思う。もし僕の生活圏(仕事の帰りに寄れる所とか、車で2、30分で行ける場所とか)にフヅクエがあったとして、実際どれくらい利用するだろうか。たとえば、コーヒー2杯(700円×2)とケーキ(500円)で、計1,900円。それで2時間半の快適な読書時間を買えるのだとしたら、ウーン、確かに高すぎる金額ではないけれど、気軽に何度も利用できる金額でもない。著者も言う通り、ここで過ごす時間というのは、たとえば仕事を頑張った自分への特別なご褒美なのである。フヅクエは「デイリーユース」を想定した場ではない。つまりそこは、非日常の空間ということになる。

そうなると…と思う。読書というのは、月に何回とか、年に何回とかいう特別なイベントではなく、ほぼ毎日の、食事をしたり風呂に入ったりと同じ行為、つまりは日常生活の一部なのだ。その日常としての読書を快適に行える空間の発見・創造こそ、生活の質に関わる重大事ということにならないか?

署名本の話

久しぶりに内田百閒を読んだ。

f:id:mf-fagott:20220223215645j:plain

どの文章からも百閒随筆の魅力がにじみ出てくる。
「寄贈本」「署名本」を読むと、自分の著書を人に贈るのも簡単な話ではないことがわかる。受け取る側にもいろいろな人間がいるのだ。寄贈本の金額もばかにならないようだ。

私が本を贈呈する時はいつでも署名する。本屋から発送させた時には、その店まで出かけて行つて一冊づつ署名した。自分の著書を人に贈るには、さうするのが当たり前の様に思つてゐる。

内田百閒の署名入りの本というのは、結構出回っているのかもしれない。僕にはそのような本を収集する趣味はないし、内田百閒の作品はなるべく旺文社文庫で読みたいと思っているので(このことは随分前にこのブログに書いた)、内田百閒の署名本に出会う可能性はほとんどないけれど。
古本屋で買った本がたまたま署名本だったということはある。最近では洲之内徹の『絵の中の散歩』に著者の署名があり、寄贈先の名前も書かれていた。それでも値段が特に高いわけではなく、店の外のワゴンに入って売られていた。

これは20年くらい前の話だが、秋元不死男の句集『万座』も、買って帰ってから署名本であることに気づいた。

  クリスマス地に来ちゝはゝ舟を漕ぐ

の句と「不死男」のサインがしたためてある。さほどの希少価値はないのかもしれないが、100円というのは安すぎだろう。