見える色、見えない色

 伊勢佐木町古書店、馬燈書房で佐藤文香の句集『海藻標本』を見つけて購入。冒頭の、

  少女みな紺の水着を絞りけり

はいろいろと取り上げられていて知っていたし、生徒に紹介もした。(9年ほど前の記事にこんなことを書いてます。http://mf-fagott.hatenablog.com/entry/20110622/p1 )
ところが、他の句は初めて読むものばかり。不勉強でスイマセン。 

海藻標本

海藻標本

 

  今回は、この句集が「緑」「紅」「褐」の三つの章に分かれているのに因んで、色に着目していくつかの句を取り上げる。「少女みな…」の句においても「紺」という色が句の命とも言える働きをしているが、その他にも色に焦点を合わせた句が多いように感じる。

  海に着くまで西瓜の中の音聴きぬ

硬い皮を優しく手でたたけば、西瓜はくぐもった響きでその中身の充実を教えてくれる。叩き割られ、中から真っ赤な果肉がはじけ飛ぶ祝祭的瞬間を待ちきれない思いで、砂浜に向かう若者たち。

  造花は赤ブーツの脚を組み直し

赤い造花と黒いブーツ。わざとらしく脚を組み直すしぐさ… 気を付けろ、男性諸君。かりそめの艶やかさに惑わされるな。

  白靴の真白あるらむこの箱に

開けられる瞬間まで、その中にあるのは「白い靴」ではなく、まだ汚れていない「白」そのものだ。あなたが欲しいのが「白い靴」でなく「白」そのものであるならば、この箱を開けることはもちろん、手に持って揺すったりもしてはならない。

  拾はれてより色を増す椿かな

人に拾われ、掌に載せられた時から、この椿の花弁はいっそう鮮やかさを増してその人の目に映るようになる。一旦生を終えて枝を離れた花も、人の所有となった時から、二度目の生を生きることになる。

  てふてふの辺りに色の多からむ

その色は、人の目には見えていない。見えているのなら「多からむ=多いのだろう」と推量するのではなく、「多し」と断定してしまえばいいのだ。「多からむ」と推量する主体は、人間でなく蝶の目で物を見ようとしているのだ。

  色のなきものを蔵してゐる浴衣

「色のなきもの」と言い切ることによって、これ以上はないというくらいの色っぽさを現出させてしまった不思議。絵を描くのに絵の具は要らない。

関根正二の自画像

 鎌倉の「関根正二展」を観に行ったのは2月13日、前期展示の期間中だった。展示替えした後にもう一度行きたいと思っていたのに、休館になってしまった。出品リストを見ると、前期後期で随分たくさんの作品が入れ替わっている。そうと知ると、今回の新型コロナ騒ぎがますます恨めしい。
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 窪島誠一郎わが愛する夭折画家』(講談社現代新書)を読んだ。取り上げられている6人の夭折画家の中でも関根正二が最も短命だ。20年と2か月の人生。その中であれだけの作品を残した。なんと凝縮された人生であろう。
 僕が印象深く思った作品の一つが、「自画像(1916年)」だったが、『わが愛する…』の筆者にとってもそうであったらしく、昭和42年、鎌倉の近代美術館で関根正二の作品と初めて出会った時のことを次のように書いている。

最も心にのこった作品は、黒インクでかかれたペン・デッサン「自画像」である。関根正二の代表作といわれる油彩画の「信仰の悲しみ」や「姉妹」「三星」、あるいは「少年」「チューリップ」といった作品にもひかれたが、ふしぎとその小さなデッサン「自画像」が私の心を一番つよくとらえた。

  筆者は、「まるですべての時間を停止させたような異様な緊張感があふれている」、「凝縮した」「スキのない」自画像を見ていると、「その場からにげだしたくなるようなふしぎな威圧感におそわれるのである」と記している。僕の受けた印象も全く同じだった。まだ17歳なのである。それが、こちらに向かって「お前は自分に厳しく生きているか?」と問いかけてくるようで、自分の生き方を見つめ直さずにはいられなくなるのだ。
 窪島は、後に自分の画廊を持ち、このデッサンを何とか手に入れたいと思う。もちろん、それは簡単に実現する話ではないのだが… その後のいきさつは、この本の中でも最も読者を引き込むところだろう。
 この「自画像」は、今は長野県信濃美術館の所有となっているが、それが今回の展覧会のために、窪島が関根正二と最初に出会った鎌倉の美術館に貸し出された。後期展示の方だったら、僕の目に触れることはなかったというわけだ。 

 

教えない先生

 もっと若い時に読んでおくべきだったんだよな、と思いつつ…

教師 大村はま96歳の仕事

教師 大村はま96歳の仕事

  • 作者:大村 はま
  • 発売日: 2003/05/29
  • メディア: 単行本
 

 戦後の大きな失敗は、先生たちが教えることを遠慮するようになったことだと思います。教えるということは「詰め込み」というふうに考えて、まずいこと、心ある教師のすることではないような気持になり、本当に教えない先生になった人が多いということです。

「先生の話、長過ぎ!」っていうのが世間一般の教師像であって、自分にもその傾向はあり、「教えない先生」が多いという認識はなかったけれど、確かにおしゃべりが長いわりには教えるべきことを教えていないというのはあるかもしれない。

振り子は先に進まない?

今度は、こんな本、読んだよ。

小針誠『アクティブラーニング―学校教育の理想と現実』(講談社現代新書) 

 内容を大まかにまとめれば、前半は広義のアクティブラーニング(生徒主体の、活動を重視した学び)に焦点を当てた近代日本の教育史。後半は、教育施策としてのアクティブラーニング批判、ということになるかな。
 前半の、戦後のカリキュラム改革の振り子運動、つまり教師主導の知識重視の教育(詰め込み教育)と生徒主体の活動や考える力を重視した教育(ゆとり教育)の間の往復運動を振り返っている部分だけど、これって読んでて何だか気が滅入るな。だって、この往復運動によって、何が前進したんだろうって考えてみても、何も思いつかない。空しくなっちゃうよ。カリキュラムがどっちに転ぼうと、40人もの生徒相手に授業することの難しさは変わらないんだよ。クラスの人数を少なくすることが何よりも授業の質の向上につながるってことを、僕は身をもって知っているんだけど、国はそうする気がないんだね。


 最後の、著者によるアクティブラーニング批判には、なるほどと思う部分もあるよ。

政府見解と対立する内容が教育現場から排除され、そのカリキュラムとアクティブラーニングとが無批判に結びついたとき、全体主義が発生しないとはかぎりません。(247㌻)

という指摘を、一笑に付すわけにはいかないと思う。そうした動きには常に警戒していかなくてはならないだろうね。その他にも的を射た批判がいくつか見られる。しかし、アクティブラーニングの負の側面ばかりに目を向けないで、建設的な議論もした方がいいと思うな。
 基礎的な知識を習得した後に初めてアクティブラーニングが可能になるのではなく、その基礎的知識を習得するためにこそアクティブラーニングを授業に取り入れることが必要なんじゃないか、なんてことを、この本を読みながら考えたんだけどね。今度また、生ビール飲みながら、その辺の話もしたいな。でも、コロナウイルスがおとなしくなってくれないと、居酒屋にも行けないね。

「主語がいらない日本語」を肯定するか、否定するか

日本語は亡びない (ちくま新書)

日本語は亡びない (ちくま新書)

 

 このブログの中で、僕も「主語」という言葉を何度か使ってはいる。しかし、英文法の「SVO」のような考え方を移入した現在の学校文法(橋本文法)、つまり、「主語―述語」を文構造の基本とするような考え方は改めるべきだとの考えは変わっていない。このたび、金谷武洋の『日本語は亡びない』を読んでみて、次のような部分には大いに賛成だと思った。(もっとも、「学校文法」が他の文法体系に変わっても、「国語嫌い」の生徒は一定数存在することは変わらないんじゃないかな。)

 日本語の事実をまったく反映しない学校文法。その不備は日本の生徒に「国語嫌い」を生む程度で実質的被害を生む事がなく、それが明治期に(アメリカのウエブスター辞典に記載された英文法を日本語に適用した)大槻文法を経て、現行の学校文法である橋本文法へと学校文法の100年にわたる長寿を保つ原因ともなった。橋本文法というのは、「何が何だ」「何がどうする」「何がどうだ」という基本文において、「何が」にあたるのが主語だというものだ。それでいて、「田中さんは医者です」などという例文を出すものだから、「ハとガの違い」は何か、という疑似問題を必然的に生んでしまうのである。もうそろそろわかりそうなものだが、日本では学校文法は一向に変わらないようだ。日本語に主語はいらない、と私は声を大にして叫びたい。

 この本を読んで面白いと感じたことの一つは、英語も遡れば主語はなかった、世界にある数千の言語のうち、主語がないと文が作れない言語はたったの八つ(英語、フランス語、ドイツ語など)で、その使用人口の割合は地球上の10パーセントでしかない、ということだ。その点では、日本語は特殊だ、という考えは改めなければいけない。主語は普遍的なものではない、ということだ。
 さらに面白く感じたのは、筆者が主語の有無を「西洋の<我>は<汝>と切れて向き合うが、日本の<我>は<汝>と繋がり、同じ方向をむいて視線を溶け合わす」ととらえ、主語を立てない日本語の性質を世界平和にも貢献しうるものとして、積極的に評価している点だ。
 この点で思い出すのは、片岡義男が『日本語の外へ』第2部「日本語」の中で繰り返し述べている、次のような部分だ。

 英語にはIがあり、日本語にはIに相当する言葉がない。英語と日本語とは、真正面から対立するほかないまったく異質な言葉であるという仮説を、Iのあるなしだけを土台にして立てることは十分に可能だ。日本は、Iという言葉を持たずに成立している社会だ。Iのある社会から見るとき、その社会はなんと異質に見えることだろう。
 IとYOUとは、強い主張や明確な考えかたを、それぞれに述べ合う。IとYOUとの対話は自と他との対立だ。 (IとYOUの世界)

 金谷の言う「日本語に主語がない」と、片岡が言う「日本語にはIがない」というのは、同じことではない。しかし、二人の考えの行きつく先にはよく似た日本語像が立ち上がる。二人の違いは、その日本語観の奥にある価値観だ。金谷が肯定的なのに対して、片岡は次のように、否定的。

 対立を回避するための言葉およびその性能が、日本語の中には豊富に用意されている。その豊富さのぜんたいをひと言で言うと、表現の曖昧さだ。  (利害の調整という、主観の世界)

 この二人が日本語の「主語」について語り合って書籍化したら、面白いのではないか。『日本語は亡びない』も『日本語の外へ』も筑摩書房の本なのだから、ぜひ筑摩書房の企画で。

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「書く」教育の大切さ

鳥飼玖美子苅谷夏子苅谷剛彦ことばの教育を問いなおす―国語・英語の現在と未来』(ちくま新書)を読んだ。 

「話す」「聞く」、すなわち口頭でのコミュニケーションの力を延ばすことを重視しようとしている昨今の風潮の中にあって、「書く」ことの教育の大切さを強調している点が、印象に残った。

書くという行為には、日本語であれ英語であれ、文章を文字として表現する以上のことが含まれています。情報や知識であれ、感情であれ、何かの描写であれ、書かれた文字を通して、それを読む人々に伝える「内容」をどのように言葉にのせるか、ということと、そもそもその「内容」の中身を言葉としてどのように思いつくか、考えつくかということの両方を含むのです。内容と表現とは分かちがたく結びついています。その両方を私たちは、ことばの力を借りて考えているのです。

 私たちがそうしたことばの力に頼っていることは、口語でのコミュニケーションと比べ、書くときにより一層意識されます。(228㌻)

ところで、苅谷剛彦によって書かれた第5章中の「比喩による理解と帰納」の項(116㌻~119㌻)は、大村はまの実践を理論化して示すのではなく、具体例を挙げるのでもなく、比喩を多用してその核心を「熱を込めて」伝えようとして成功していない苅谷夏子執筆部分に対するかなり手厳しい批判として書かれているとも読める。

絵の授業を俳句の授業のつもりで聴く

千住博の美術の授業 絵を描く悦び』(光文社新書)を読んだ。 

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

  • 作者:千住 博
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2014/06/27
  • メディア: Kindle
 

絵を描く人への教えは、あらゆる表現活動に当てはまるに違いない、特に俳句作りには、と思って読み始めたが、思った通りだった。

よく作品をつくるときに「量より質だ」と言われますが、そんなことはありません。…むしろ私は「質より量だ」と考えています。質の高いものというのは、量を描いている中に、偶然混じっているものだからです。 (53㌻)

俳句ではこれを「多作多捨」などと言っているようだ。

普通にしていても十分個性は出ているものです。あなたを間違える人はいません。これが必要にして十分な個性です。無個性な人というのはいるわけがありませんし、もしいたらこれは逆に驚くべき個性です。 (70㌻)

文章表現にも、その人の個性はどうしても表れてしまうもの。文は人なり。絵も句も人なり。

絵画とは世の中のわからない不思議に対する問いかけなのです。イラストレーションとは簡単に言うと、わかっていることの説明図です。(中略)絵画は説明とは根本的に違うもので、真摯な姿勢からくる「なぜだ」という問いかけの要素が強く、それが作品を大きくします。 (73㌻)

文章表現においても、その根本にあるのは「問い」。「説明になってしまっている」というのは俳句を批判するときの決まり文句。

古典はヒントの宝庫です。上手くいかないとき、成功例は世界の古典の中に存在します。古いものをどんどん見る気持ちが大切です。そして改めてその偉大さに気づきます。 (110㌻)

これはすべての芸術表現に言えることだろう。温故知新。文学でも、音楽でも。筆者は、文学の古典からも学んで絵に生かしている。

松尾芭蕉が随筆「笈の小文」で述べた「風雅におけるもの造化に従がひて四時を友とす」。この「造化」に私は目を留めました。「造化」とは、水が流れたら流れたその形そのものに美を見だそうとする考え方です。また紀貫之の『新撰和歌集』の中の「花実相兼」は、内容と表現が完全に一致したときに、完璧な作品が生まれる、ということです。 (122㌻)

そもそも俳句における「写生」は、正岡子規が絵の世界から借りて来た言葉なのだから、次のような一節が出てくれば、俳句とつながってこないわけにはいかない。

自然の中の何かをモチーフとして選んだときに一番大切なのは徹底的に観察することです。とにかくよく見てデッサンを重ねるということがとても大切なのです。 (152㌻)

 

今、アマゾンのサイトを開いてみて、この本に続編があることを知った。千住先生、まだ学生に語り尽くせていないということなのだろう。何を語ろうとしているのか、興味がある。 

美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)

美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)

  • 作者:千住 博
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2013/12/13
  • メディア: Kindle