「主語がいらない日本語」を肯定するか、否定するか

日本語は亡びない (ちくま新書)

日本語は亡びない (ちくま新書)

 

 このブログの中で、僕も「主語」という言葉を何度か使ってはいる。しかし、英文法の「SVO」のような考え方を移入した現在の学校文法(橋本文法)、つまり、「主語―述語」を文構造の基本とするような考え方は改めるべきだとの考えは変わっていない。このたび、金谷武洋の『日本語は亡びない』を読んでみて、次のような部分には大いに賛成だと思った。(もっとも、「学校文法」が他の文法体系に変わっても、「国語嫌い」の生徒は一定数存在することは変わらないんじゃないかな。)

 日本語の事実をまったく反映しない学校文法。その不備は日本の生徒に「国語嫌い」を生む程度で実質的被害を生む事がなく、それが明治期に(アメリカのウエブスター辞典に記載された英文法を日本語に適用した)大槻文法を経て、現行の学校文法である橋本文法へと学校文法の100年にわたる長寿を保つ原因ともなった。橋本文法というのは、「何が何だ」「何がどうする」「何がどうだ」という基本文において、「何が」にあたるのが主語だというものだ。それでいて、「田中さんは医者です」などという例文を出すものだから、「ハとガの違い」は何か、という疑似問題を必然的に生んでしまうのである。もうそろそろわかりそうなものだが、日本では学校文法は一向に変わらないようだ。日本語に主語はいらない、と私は声を大にして叫びたい。

 この本を読んで面白いと感じたことの一つは、英語も遡れば主語はなかった、世界にある数千の言語のうち、主語がないと文が作れない言語はたったの八つ(英語、フランス語、ドイツ語など)で、その使用人口の割合は地球上の10パーセントでしかない、ということだ。その点では、日本語は特殊だ、という考えは改めなければいけない。主語は普遍的なものではない、ということだ。
 さらに面白く感じたのは、筆者が主語の有無を「西洋の<我>は<汝>と切れて向き合うが、日本の<我>は<汝>と繋がり、同じ方向をむいて視線を溶け合わす」ととらえ、主語を立てない日本語の性質を世界平和にも貢献しうるものとして、積極的に評価している点だ。
 この点で思い出すのは、片岡義男が『日本語の外へ』第2部「日本語」の中で繰り返し述べている、次のような部分だ。

 英語にはIがあり、日本語にはIに相当する言葉がない。英語と日本語とは、真正面から対立するほかないまったく異質な言葉であるという仮説を、Iのあるなしだけを土台にして立てることは十分に可能だ。日本は、Iという言葉を持たずに成立している社会だ。Iのある社会から見るとき、その社会はなんと異質に見えることだろう。
 IとYOUとは、強い主張や明確な考えかたを、それぞれに述べ合う。IとYOUとの対話は自と他との対立だ。 (IとYOUの世界)

 金谷の言う「日本語に主語がない」と、片岡が言う「日本語にはIがない」というのは、同じことではない。しかし、二人の考えの行きつく先にはよく似た日本語像が立ち上がる。二人の違いは、その日本語観の奥にある価値観だ。金谷が肯定的なのに対して、片岡は次のように、否定的。

 対立を回避するための言葉およびその性能が、日本語の中には豊富に用意されている。その豊富さのぜんたいをひと言で言うと、表現の曖昧さだ。  (利害の調整という、主観の世界)

 この二人が日本語の「主語」について語り合って書籍化したら、面白いのではないか。『日本語は亡びない』も『日本語の外へ』も筑摩書房の本なのだから、ぜひ筑摩書房の企画で。

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