「奥の細道」は若者だけが難しいと感じるのか

堀切実『おくのほそ道』をよむ」(岩波ブックレット)を読んだ。

『おくのほそ道』をよむ (岩波ブックレット―クラシックスと現代)

『おくのほそ道』をよむ (岩波ブックレット―クラシックスと現代)

 

 大学の国文科3年生に対するアンケート調査(『おくのほそ道』のどこがつまらないのか、芭蕉のどこが嫌いか)の集計結果を示し、それについて論評を加えるというユニークな形の「おくのほそ道」論。
 著者は芭蕉の読者を旧世代(言語世代)と新世代(イメージ世代)とに二分し、イメージ世代の若者にとって芭蕉の作品の魅力は伝わりにくいのだ、と結論づける。しかし、芭蕉受容の難しさを世代の特性と関連付けるのは、いささか無理があるようにも見える。二つの世代の境界線がどのあたりにあるのかは明確でなく、僕自身がどちらの世代に入るのかもよくわからないが、イメージよりも言葉優位の「旧世代」の人間にとっても、芭蕉の作品を理解し、その魅力に触れ得たと実感するのは容易なことではないのではないか。

夏井いつきを読む

 仕事帰り、図書館に寄って、夏井いつき句集 伊月集 龍』を読んだ。


  遺失物係の窓のヒヤシンス

  しつかりと握つたはずの初蛍

  たむろして金魚のよしあしを論ず 

  そこにまだありをととひの鵙の贄

  台本になく咳き込んでをりにけり

  善玉のはうの狐火つれてくる

  考へてをるとも見えて冬耕す

  地下鉄のふいに桜の中に出る

  花びらを追ふ花びらを追ふ花びら

 

 あと一句選べばちょうど十句になるので読み返していたら、スピーカーが閉館の音楽を鳴らし始めたので諦めた。前書きで黒田杏子が選んだ十句と重なっていたのは、「そこにまだ…」の一句だけだった。

 それにしても、「いつき」と「伊月」では随分イメージが違う。「伊月」はどうしても「いげつ」という読みが浮かんできてしまう。 

句集 伊月集 龍

句集 伊月集 龍

 

現代人が負わされた問い

新・建築入門―思想と歴史 (ちくま新書)

新・建築入門―思想と歴史 (ちくま新書)

 

 大学の入学試験の過去問をいろいろ解いてみるという授業の中で、隈研吾の『新・建築入門―思想と歴史』を出典とする問題と出会った。それは、第二章「建築とは何か」のほぼ全文を読ませるもので、大学の入試問題としては、幸い良質な方の問題であると言えたが、一冊の本の一部を抜きだした文章の限界というのはどうしてもある。つまり、問題文からは建築が「構築」であるということは読みとれるものの、そもそもその「構築」とは何か、ということが十分には理解できないもどかしさが残ってしまうのだ。僕にはそのもどかしさをそのままにしておくことはどうしてもできなかった。

構築には特定の主語がある。主体が構築するのであり、しかも意志をもって、構築するのである。(25㌻)
形は構築にとって不可欠な要素である。構築とは形への意志である。(38㌻)
構築にとって垂直性は不可欠であり、かつ決定的なのである。(39㌻)
構築は構造を表現しようとする。(43㌻)
プラトンは乱雑な現実に対してイデアという理想的な世界を対比させた。乱雑な現実という外部に対比させて、彼はイデアという理想的世界を構築したのである。その対比こそが構築の本質であり、その意味においてプラトンこそが古代世界における構築的精神の完成者と呼ぶにふさわしい。(48~49㌻)
構築とはまぎれもなく自然を殺傷する行為であった。構築は何らかの形での自然の破壊を伴う。(70㌻)
構築とは自然を敵として戦われた戦争である。(72㌻)

このあたりまで読めば、構築というものの本質が見えてくる。そして、現在、構築=建築がさまざまな批判にさらされるに至った経緯も、当然のこととして理解できる。確かに建築は危機に瀕しているのだ。

もはや世界は物質の過剰に悩んでおり、しかも物質とは本来的にきわめて不自由なものであり、人間に今必要なのは物質的なものをさらに構築することではなく、非物質的な構築である、という批判である。(220㌻)
構築がそのものがかかえている自己中心的な罪悪性に対する批判であった。この自己中心性が、環境破壊の元凶であるという批判である。すなわち構築とは、その外部のすべてを抑圧しようとする、人間の原罪とも言うべき行為であるというわけである。(221㌻)
構築にかわる建築の方法論というものが、はたして可能であるのか。われわれは今、この問いの前に立たされている。(222㌻)

これまで、建築は構築とほぼ同義であると言えた。しかし、この先もそうであり続けることはできない。建築はどうあらねばならないのか、大学入試問題のように答えはあらかじめ用意されていない。これは現代人が負わされた哲学的な問いなのだ。

やるしかない状況に自分を追い込む

 『日曜俳句入門』(吉竹純著岩波新書)は、俳句の作り方ではなくて、新聞俳壇などへの投句を楽しむコツを教えてくれる本。 

日曜俳句入門 (岩波新書)

日曜俳句入門 (岩波新書)

 

  僕は新聞の俳句欄に投句するのは腕を磨くのにはあまり有効ではないと聞いていたし、確かにそうだろうと思っていた。だって、何千もの作品の中から選ばれるのはそのおよそ100分の1だし、選者のコメントをいただける確率はさらに低い。自分の句がどう評価されているのか、なかなかわからないのだ。そんなわけで、新聞よりは掲載される確率の高そうな俳句総合誌を鍛錬の場と決めて、投句をしていた時期があったのだが。
 しかし、この本を読んで、少し認識が変わった。自分の句が掲載されることを目指して、毎週続けて投句する。1年、2年と掲載されることがなくても、とにかく継続して投句を続ける、その努力が報われないはずはないのだ。全国紙に自分の句が出た時の歓びは、総合誌の時の数倍も大きいに違いないし、著者が言うように周囲からの反響もあるだろう。
 僕が新聞俳壇に投句しないのは、それがあまり鍛錬にならないと思っていたからというだけでなく、単に宛名を書くのが面倒だと思っていたということもあるかもしれない。だったら、官製はがきにまとめて宛名を印刷してしまって、投句しなければはがきが無駄になる、という状況を作ってしまったらどうだ。句会の期日が迫るとか、やるしかない状況に追い込まれなければやらない自分であることはよくわかっているんだから。

記憶か思考か

橋爪大三郎の『正しい本の読み方』(講談社現代新書)を読んだ。 

正しい本の読み方 (講談社現代新書)

正しい本の読み方 (講談社現代新書)

 

読んだことは、忘れてよい。本のなかみは、忘れていいことが、大部分です。それは、日常会話のなかみは、忘れていいことが大部分なのと同じです。
読んだことのうち、忘れないほうがいい大事な内容は、自然に頭に残ります。(163㌻)

本を覚えるのではなく、本のことを覚える。これで十分です。本のことを覚えるとは、誰が書いた、どんな名前の本で、だいたいどんなことが書いてあったか。よい本だったか、それとも大したことがなかったか、を覚える。
それ以上の詳しいことは、覚えなくてよい。だって、本に書いてあるんだから。知りたいことがあれば、また本を見ればよいのだから。(165㌻)

僕は人よりも記憶力が劣るんじゃないか。本を読んでも、何も頭に残っていない気がする。読んでも読んでも、徒労に終わっているんじゃないか。どんなに読んでも僕にとって読書は暇つぶしにしかなっていないのではないか… そんな思いにとらわれることは度々あるが、「忘れてよい」と言われると安心する。どんな本を読んだか、面白かったかそうでなかったか、そのくらいは記憶力の悪い僕だって覚えている。(いや、それさえも時々忘れてしまうから、記録を残しておくためにこのブログを書いているんだけど…)
そういえば、誰かが言っていたんだか、僕自身がそう思ったのだったか忘れたけれど、本を外付けのハードディスクだと思えばいいんだな。あそこに書いてあったはず、という記憶さえあれば、必要なときにアクセスして取り出すことができる。
筆者はこんなことも言っている。

本の学校教育は、暗記に頼りすぎです。
考えて解くべき問題を、記憶で解いてしまうのは、有害です。思考力が弱くなる。
記憶と思考は、役割が違います。そして、頭の活動の中心になるのは、思考。思考を強めなければならない。(169㌻)

「日本の教育は知識偏重だから、いかん」「いや、知識軽視が今の教育の質を落としている」という議論は繰り返されているが、筆者の立場は一見すると知識偏重批判派のようにも思われる。しかし、こうも言っている。

なにかを覚えるのだったら、将来の、入学試験のために覚えなさい。社会に出てからも一生覚えているつもりで、覚えなさい。
たとえば、元素の周期律表。国語だったら、助動詞の活用。助動詞の接続型(未然形接続は、る、らる、す、さす……というあれです)。これを覚えないと、古文が読めない。数学だったら、定理や定義など。ごく限られたものです。(172㌻)

「ごく限られた」と言うけれど、助動詞の活用や接続を理解するためには、動詞の活用も知っておかなければいけないし… などなど、覚えるべきことは結構膨らんでしまうもの。そうなると結局、知識を貯め込むということを、軽視することはできない。どこまで生徒に要求するのかというのは、いつも頭を悩ませるところ。


最後に、この本の勘所と思われる箇所の一部を、僕自身の記憶のために抜き出しておこうと思う。

言葉には、ふたつの性質があることがわかります。
理屈を言う。そして、前提を述べる。
理屈とは、論理です。(中略)
でも、理屈のなかには、価値はない。価値は、前提の中にあります。前提のなかに、大事なものが隠れています。うちの車はポンコツだから新車を買わなきゃ、という考えは、論理でできているように見えるけれど、その前提に、そのひとの価値が隠れています。わが家には車が必要だとか、ポンコツより新車のほうがいいとか。(219~220㌻)

この「前提」を見ぬかなければ、問題は解決しない。ではこの「前提」に気づくために必要なのは、「知識」なのか、「思考」なのか、難しいところだが、いずれにしろ、その問題解決に役に立つのが「本」である、というのが筆者の一番言いたいこと。

予備校の先生はどういう授業をしているのか、拝見。

これもまた、授業のために購入。 

古文の勉強法をはじめからていねいに (東進ブックス 大学受験 TOSHIN COMICS)

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  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ナガセ
  • 発売日: 2018/11/27
  • メディア: 単行本
 

プロの技を見せてもらって、そこから謙虚に学びたいと思ったのだが、とても参考になった。(本当は予備校に行って、生の授業を見せてもらえればいいのだけれど。)

というわけで、同じシリーズの「現代文」も買ってしまった。予備校の 授業料だと思えば、安い。

現代文の勉強法をはじめからていねいに (東進ブックス TOSHIN COMICS)

現代文の勉強法をはじめからていねいに (東進ブックス TOSHIN COMICS)

  • 作者:出口汪
  • 出版社/メーカー: ナガセ
  • 発売日: 2014/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

これで『平家』を読んだ気になってはいけないが…

平家物語 マンガとあらすじでよくわかる (じっぴコンパクト新書)

平家物語 マンガとあらすじでよくわかる (じっぴコンパクト新書)

 

 授業の準備のために購入。

長大な物語が要領よく簡潔にまとめられていて、ありがたい。『平家物語』の全体像を見渡すことができる。

横山光輝の漫画が各場面ごとに1ページ単位(2~3コマ程度)で引用されているのは、もう少し長くても良かったのではないかとは思うが、まあ、挿絵程度の効果はある。