師を持つ才能

内田樹平川克己名越康文の三氏による鼎談、『僕たちの居場所論』(角川新書)を読んだ。

内田氏は、巻末の「『おわりに』にかえて」で、

この天地の間には僕が人間について知りうることがまだまだ無限にあると思うと、「まだ生き方が足りない」と思う。「見るべきものは見つ」と言い切ってさばさばするよりも、「まだまだ世界は謎に満ちている」と思ってじたばたするほうが、僕は愉しい。

と言っている。僕もまったく、そうだ。平知盛の境地にはほど遠い。やりたいこと、やるべきことがたくさん残っていると焦って、じたばたする毎日。読みたくて買って、読まずに積んである本、読みかけの本も多い。にもかかわらず、こんな本(失礼!)に手を出してしまうとは。

僕の目を引いたのは書名の「居場所」という言葉だ。目次を開くと、「自分が落ち着ける場所」「原稿を書く場所」「自然体でいられる喫茶店」などの見出しが興味を惹く。フルタイムで勤務していた時は圧倒的に職場にいる時間が長く、あまり意識に上らなかったが、退職して自分の時間が少しずつ増えてくると、その時間を心地よく過ごす場所の確保が重要になる。それは家のなかにも、家の外にも必要だ。

名越氏のように、通いなれた喫茶店が3つもあって、そこで読書や俳句作りに集中できたらいいだろうと思う。もっとも僕の場合、7~800円もするコーヒーを外で飲むよりも、家で自分で淹れて飲んだ方が安上がりだし寛げると思って、店に入るのを躊躇ってしまうことが多いから、いつまでたっても行きつけの店ができない。そもそも自分の行動範囲内で、心惹かれる喫茶店というのが思い浮かばない。

ところで、この鼎談、話題は居場所のことだけでなく、国内政治、国際情勢、若者論、師弟関係、父親の意味、などなど、広範に及び、三人がそれぞれの体験を踏まえた説得力のある自説を開陳しあう。

興味深かったのは、「長男というのは、師匠がいない」という平川説。自己決定を求められる長男には弟子になる才能が欠落している、というもの。これは僕にも当てはまる気がする。師と仰ぐべき人は何人かいたのに、その人にとことんついて行かずに、いつしか疎遠になってしまったことを、いまさらながら後悔している。ただ、その理由は自分が長男であるゆえに才能が育たなかったからというわけではく、別の要因があったようにも思うけど。