学生に戻った気分で

街場の文体論

街場の文体論

内田樹の『街場の文体論』は、神戸女学院大学での半年間の最終講義14回分を書籍化したもの。最初から最後まで、これほど読者を退屈させずに引きつけておける本は珍しいのではないか。講義の60パーセントほどはその原形をとどめているというから、もとの講義もさぞかし面白かったのだろう。居眠りをしていた学生もいたって? 信じられない! こんな名講義を受講できた学生が羨ましい。とはいえ、学生には受講のあとにレポートが課せれる。その課題とは、

僕が授業でしゃべったことやお配りした資料の中から、一つだけ、論点を一つだけに絞って、それについて異論がある、興味がある、意見を述べたいことがある、ということがあれば、それを書いていただきたい。字数も制限しません。

というもの。さて、僕が学生だったら何を書くだろう。著者の講義はあちこちに話題が飛び、そのどれもが僕にとって興味深いものばかり。どの部分を取り上げたものか、迷ってしまう。たとえば、


ソシュールが研究半ばにして放棄してしまったアナグラム。これは単なる修辞ではなく、「僕たちの知らない言語生成プロセスの深層で行っている営みの表出である。
○メタ・メッセージは「死活的に重要な情報」であって、メッセージの「額縁」に相当する。養老猛によると、ヨーロッパでは教会や劇場の建物が「額縁」であることを示すために(つまり、ここで話されることは現実ではありませんよと知らせるために)、非現実的に作り込んである。
○「障害」を「障がい」と書く「表現自粛」のひどさ。「もとの漢字に戻さないと意味不明の言葉なんだから、表記だけつくろっても始まらない。
○人が母語の制約=「檻」から逃れ出るには、「檻」ごと転がってしまえばいい。それは「定型を身体化する」ということ。そのために有効なのは、「母語の古典を浴びるように読む」ことだ。「言語の冒険は定型を十全に内面化できた人間だけに許される。
漱石の『虞美人草』は、「驚くほど教訓的な物語」だ。「物語の構造は『三匹の子ぶた」と一緒です。三匹の子ぶたがいます。さて、どの豚に生き残るチャンスがあるでしょう、という話なんです。
村上春樹の父親は、中国での戦場での経験を語らずに亡くなった。村上にとって、中国は「飲み込むことができない」トラウマである。村上春樹の世界性の根拠は「自分が経験しなかった経験についての記憶の欠如」にあるのではないか。


僕が強く興味を感じながら読んだ部分は、以上のほかにもまだまだたくさんある。それらの中から一つ選んで何か書くとしたら、うーん…
(この続きは、明日書きます。)