類想をおそれる

「類想をおそれるな」の章で、筆者は「類想」を「類句」とは別物として、次のように述べている。

「春はものの始まり、夏はものの盛り、秋は滅びへと向かい、冬は死の世界」という共通の認識が個々の季語の背景になっている。こういう共通感覚を模倣だという人はいない。類想は内容にかかわることで、類句は表現された字句の問題。類句は避けねばならないが、類想はおそれてはいけない。むしろ類想の奥に潜む共通感情を深めるべきだ。

確かに季語とはそもそも「類想のエッセンスみたいなもの」だということはできる。であるならば、類想を恐れていたら、確かに俳句など作れない。詠み手の意図が読み手に伝わるのは、季語という共通の了解事項に依るところが大きい。しかし、その時両者の間に類想が働いた、とは普通は言わない。筆者は、「類想というものは悪いどころか、むしろそれを土台にする、深めることが必要」と言っているが、その「類想」とは、しばしば問題となり、避けるべきとされる類想のことを指しているのではない。

類想(類句)は、やはりおそろしい。自分の自信作が、先行句の類想であるとされれば、がっかりだ。しかし、俳句がたった17音の短詩である以上、自分の句が類句と見なされてしまう可能性があることは、覚悟しておかなければならないだろう。むしろ、もっと恐れるべきは、次のような事態だ。

マンネリズムというのは、要するに自分自身の一度手に入れた手法を反復使用して「類句」をかさねる状態に至ったことをいう。したがって、ひとりひとりの作者の前には、他人の作に対する類句のおそれとともに、自作に対する類句のおそれがあるといっていい。(村山古郷、山下一海編『俳句用語の基礎知識』、「類想(類句)」の項より)

僕の場合はと言えば、反復使用できるような自分自身の手法を未だに手に入れられずにいるわけだが。