朝日新聞の書評欄にで知って読み始めたが、勝手に想像していたよりもずっと中身の濃い、読み応えのあるエッセイ集だった。
好きな俳句はと聞かれたら、
夏草に汽罐車の車輪来て止まる
とか、
梅咲いて庭中に青鮫がきている
などなど、いろいろ挙げることができるが、好きな漢詩は、と聞かれると困る。
春眠暁を覚えず
とか、
国破れて山河在り
のように、教科書で誰でも出会う超有名な詩はすぐ思い浮かぶが、それはいろいろ知っている中でそれが好きです、というわけではない。そもそも、どれが好きというほど漢詩を読んでいない。李白と杜甫について聞かれたら、次のように答えることにしているという小津夜景と僕とでは、レベルが違い過ぎる。
李白は遊戯性に優れ、杜甫は批評性が強みだよ。
李白は雰囲気と音色がすばらしい反面、題材の幅がせまくて、どの詩も同じ曲を聴いているような退屈さがあるの。杜甫は発想が自由で、語彙が多く表現に厚みがあるけれど、テーマ主義の面がとっつきにくいかな。
筆者の漢詩に対する造詣の深さには、ただただ脱帽するしかありません。漢詩については、こんなことも言っていて、なるほどそうだよなあ、と思ってやたらと線を引いてしまった。
そもそも漢詩は定型詩でなく、明治になるまで日本で唯一の文語自由詩だった…漢詩は視覚的・観念的には定型でも、聴覚的・実際的には音の数に縛られないフリースタイルの表現として人びとに受け入れられ、愛されてきたのである。…日本人が脈々と漢詩に求めてきたものとは、実は自由詩の感性だったのではないか。
俳人でもある著者は、もちろん俳句についても鋭い知見を披歴する。
俳句は十七音のフレームに世界をおさめつつ、そのフレームの奥へ向かってイメージとか、テキストとか、マテリアルとか、テクニックとかいったレイヤーを重ねてゆく遊びだ。で、ここで誤解を生むのがフレームの存在で、これを一部の批評は鋳型にはめることだとみなして反動的だというのだけれど、いったいなんでそう思うのかが謎である。定型の使い手たちはそのつど新たに方と出会う、つまり世界を生き直しているのであって、カップケーキの型みたいなものを使用しているのではないのだ。
これを機に、田中裕明賞を受賞したという句集『フラワーズ・カンフー』も読まねば…
それから、彫刻と絵画について書いてある章も僕にはとても興味深く、印象に残った。小津夜景には古楽についての著作もあるようだ。守備範囲の広さというか、攻撃パターンの多彩さというか、そのマルチな才能に驚く。