高柳克弘『究極の俳句』を読んだ。
終章から言葉を拾って、著者の俳句観をざっとまとめてみると、以下のようになる。
「伝統と前衛とを止揚したところに芭蕉の真価があった。」俳諧は「生粋の前衛芸術」なのである。「過剰な伝統意識は、季語の本意の固定化を招く。」「新しさは、自由から生まれる。」「俳諧自由」という言葉を次の時代に手渡していくことこそ、俳句の伝統を守ることになるのだ。
このような俳句観から、「ホトトギス」に対する、次のような厳しい評価が生まれる。
俳句は、反伝統を、伝統とする文芸。ゆえに、伝統を重んじるほどに、伝統から遠ざかってしまう。そんな矛盾が、現代の「ホトトギス」の句には見て取れる。
今日何も彼もなにもかも春らしく 稲畑汀子
空といふ自由鶴舞ひやまざるは 同
…これらの句は、春の訪れの喜びや、飛翔する鶴の美しさが、素直に詠まれているが、詩的感興には乏しいといわざるを得ない。思いがけない言葉と言葉が取り合わされる喜びがないのだ。
…季語を「伝統」にしようとして侵すべからざるものとして扱う意志こそが、季語を殺してしまうのだ。
言葉と言葉(物と物ではない)の取り合わせが生み出す「化学反応」が、すなわち詩情であるとする考え方を当てはめるならば、確かにこれらの句に「化学反応」を生じさせる要素は見いだせないかもしれない。しかし、これらの句は著者が言うように「過剰な伝統意識」がもたらした「詩的感興に乏しい句」として否定されるべき句だろうか? 作者なりに新しさを追求しようとする意志が感じられはしないか?