現実の実在性に届く眼

今、現代文の授業で、野矢茂樹の「言語が見せる世界」という評論を読んでいるのだが、ここで説かれていることの多くが、俳句についての言説と重なってくることに気づいた。
「言語が見せる世界」の中にはキーワードの一つとして、「プロトタイプ」という言葉が出て来る。これは、あるものごとについて語られる普通の事柄の全体であると説明される。これは「通念」、あるいは「典型」「概念」という言葉で置き換えることも可能だ。(筆者はこれを「典型的な物語」とも呼ぶ。)我々が物事を知覚するのは、この「プロトタイプ」を通してであることが多い。たとえば、「鳥」というものをとらえようとするとき、「羽と嘴を持ち、空を飛び、卵を産み、鳴き、ある鳥は水面を泳ぎ、…」といった通念をそこに持ち込む。
ここで俳句に話題を転じれば、思い浮かぶのは「季語(季題)」、あるいは季語の「本意」という言葉である。季語を知るとは、季節の景物の「プロトタイプ」を知ることである。「花」にしても「月」にしても、我々はそこに「典型的な物語」、つまり季語の本意を読み込む。これは俳句の約束事なのだ。この約束事が、極端に短い俳句を詠み、読むことを可能にしている面がある。しかし、季語に凭れかかるのみでは、通念的な句、あるいは類想句の量産という弊に陥る。では、そうならないためにどうしたら良いか。
野矢茂樹は「現実は常に、典型的な物語をはみ出している」と言い、さらに次のように続ける。

ここには、私が「実在性」ということで意味したいと考える二つの側面がある。一つは典型的な物語を超えて際限なくディテールを供給するという側面、そしてもう一つは典型的な物語から典型的でない物語へと逸脱していくという側面である。概念が開く典型的な物語には、無限のディテールも、意表を突く驚きも、全く欠如している。目の前のものに取り立てて関心を抱いていないのであれば、私はただその典型的な物語の世界の内にとどまっているだろう。しかし同時に、そんな典型的な物語を食い破り、そこからはみ出してくる実在性も、我々はたしかに受け止めているのである。世界を語り尽くすことはできない。そして何よりも、世界は私を驚かし得る。それゆえ、典型的な物語の世界は、私にとってあくまでもスタート地点にほかならない。典型的な物語とは、言語によって課される「初期設定」であると言ってもよいだろう。私はまず、言語が見せる相貌の世界に立つ。そして、世界の実在性に突き動かされ、新たな物語へと歩を進めるのである。 

これを俳句に当てはめれば、「通念的な句を作り続けないために、現実の持つディテールに関心を持とう。典型から逸脱したもの、典型からはみ出した実在性に目を向けて、今までの俳句が言わなかったことを言おう」ということになるだろう。季語とその本意を知ることによって俳句の「スタート地点」に立つことはできる。しかし「初期設定」のままの季語から発想しているばかりでは、いつまでもスタート地点に立ち続けねばならない。
しかし、「新たな物語へと歩を進める」ことは簡単なことではない。僕にとっても通念という縛りから自由になることは積年の課題だ。

さて、『半澤登喜惠句集 耳寄せて』は「課題」に取り組むにあたって、良い手本になる。

  海月見て墓の要らない話など

海月を見ていることと、墓の要らない話などしていることに、何の因果関係もなさそうだ。これこそ現実の一場面。

  子の降りてぶらんこ重くなりにけり

作者は力学的常識からも自由である。自分の感性の方に信頼を置いているのだ。

  図書館に薄荷の匂ふ春休み

図書館で薄荷の香を感じたことがあるという人は稀だろう。作者はそれを逃さない。

  弔電を送り干梅裏返す

弔電を送ることと干梅を裏返す作業が連続した動きになる必然性は見つからないが、現実においてはそれはあり得ることだろう。

  秋暑し車庫で宿題仕上げをり

なにも車庫で宿題をやらなくても、と思うが、なにか特別な事情があってこういう事態になったのだろう。(暑いから涼しい車庫に逃げ込んだと解釈しては、この句はいただけなくなる。)

  反戦の落書秋の女子トイレ

トイレの落書とは淫猥なものというのは通念に縛られた思いこみなのかもしれない。

  葉桜や騒がしきバス火葬場へ

火葬場へ向かうバスはいつもしめやかであるとは限らない。

 

これらは、ありがちなことを言い留めた句ではないだけに、必ずしも読み手の共感が得やすい句ではないと思う。しかし、作者の眼は、確かに現実の「実在性」に届いている。