俳句を遡る

僕たちが俳句を読んだり、作ったり、生徒に教えようとしたりするときに生まれる疑問には、様々なものがあります。
・俳句にはなぜ「季語」が必要なのか?
・「切れ字」とは何か?
・俳句は「文語」で書くべきか、「口語」で書くべきか?
・俳句は「歴史的仮名遣い」で書くべきか、「現代仮名遣い」で書くべきか?
・俳句における「挨拶」とは何か?
などなど…

俳句のはじまる場所 実力俳人への道 (角川選書)

俳句のはじまる場所 実力俳人への道 (角川選書)

『俳句のはじまる場所』は、これらの疑問に対して納得のできる答えを導き出すため、俳句をその「源流」まで(すなわち「俳句のはじまる場所」まで)遡り、具体的な作品に即しながら、丁寧な考察を積み重ねて行きます。歴史を学ぶことによってはじめて現在を正しく捉えることができるという一般的な真理を、この本は俳句の史的考察を通して教えてくれます。
ただし、この本はいわゆる俳句史の本として書かれてはいません。副題に「実力俳人への道」とあるように、本格的に俳句作りに取り組もうとしている人が必ずぶつかるはずの個々の問題をテーマとしてとりあげ、そのテーマごとに「源流」を探り、句作上の指針を示そうとしたものです。
中でもページ数を割いているのが「季語」の問題です。ごく最近僕は、俳句を作るときに不可欠な拠り所として「歳時記」を用いることの是非について思いを巡らすことがあったのですが*1、次の箇所を読むと「歳時記」のページを繰ることの意味に思い至ります。

空間のなかに存在する歌枕に対応して、時間のなかに存在するものが季語である。そのうちの歴史を持ったものは和歌、連歌俳諧とさまざまな作品が積み上げられるように書きつがれてきた。季語の主はそれらの作品、そして、それらの作者である死者と言える。季語を大切に詠おうとする俳句は、広い意味ではそれらの死者たちへの挨拶であるとも言えるのではないか。(第七章 挨拶の重要性)

ある季語を用いて俳句を作ろうとして「歳時記」を開き、その季語を用いた先人の句に目を通すという行為は、その先人への挨拶なのだという意識を持ったときに、単なる「参照」ではなくなるということでしょう。
また、次のような箇所は、句中に季語を用いるということが単に俳句の「お約束」を果たしたということにとどまらない、重い意味があるということを教えてくれます。

取合せの俳句における季語の用法は、広い意味での引用になっているといっていいだろう。取合せの句のなかで使う季語は修飾などを一切加えずそのままで置くことが多い。それによって、従来その季語が用いられてきたすべての詩歌の記憶が流れこんでくる。(第十八章 取合せの試み)

ここに「詩歌の記憶」ということばが出てきますが、俳句の「源流」を訪ねることは、詩歌の「記憶」を確認することなのだとも言えそうです。
しかし、著者小澤實は過去の「記憶」ばかり振り返っていればいいと言っているわけではありません。次のようなことばの意味もまた噛みしめるべきでしょう。

折々に読まれた詩歌の限りない積み重ねがあって、現在の俳句がある。同時に、ぼくたち、現代の俳人が一句一句を詠む、その時々も、未来の俳句のための、俳句のはじまる場所でなければならない、と思う。(あとがき)


*1:『俳句界』11月号の「俳句界時評」で、林桂が次のように言っているのを読んだことがその一つのきっかけです。「一体、『歳時記』という合わせ鏡が必要な俳句の表現とは何なのであろうか。純粋に表現の問題として見るとき、非常に特殊であることは言うまでもない。このことを俳句は一度本気で考えてよいのではないか。」