二人の「僕」

家から逃げ出すとき、自分以外のなにから逃げるというのか。さらば、と野生の若者が家好きの若者に告げた。

孤独を求めて標高2,000メートル近い山の中に小屋を借りた「僕」は、気に入って手に入れたはずのその山小屋での日々にも疑問を抱くようになり、ザックに食料その他を詰めて、さらに標高の高い山の稜線の、その向こうを目指して歩き出す。

自然の中に身を置き、自然と対話する中で見つけたものは、結局自分自身だったのではないか。自然との対話は自分自身との対話だ。「僕」は山小屋に戻る。「野生の若者」は「家好きの若者」と折り合いをつける。行き詰まりを感じていた自分に光がさす。書けなかった「僕」は書ける自分を取り戻す。

 

ところで、作品中にヘミングウエイの『二つの心臓の大きな川』という短編の名が出てくる。偶然にもつい最近、僕はこの作品を読んだのだが、読後、なぜこのような題名なのか疑問が残った。実はTwo-Hearted Riverという実在の川の名前なのだと教えてくれたのは、次のサイトだ。

https://team-blocks.com/bigtwoheartedriver/

固有名詞ならば、その意味を詮索しても無駄かもしれない。しかし僕は、「二つの心臓」が「二人の自分」を含意していると読んでみたい。(僕が読んだ大久保康雄の訳では『心が二つある大きな川』となっているから、なおさらだ。)主人公ニック・アダムスも、一人でテントを張り、川に浸かって鱒と格闘しているとき、もう一人の自分と向き合っているのではないか、そんなことを思わせる題名だ。