コーヒーから珈琲へ

僕は珈琲

前作『珈琲が呼ぶ』は本文中ではすべて「コーヒー」という片仮名表記で統一されていたが、今度の『僕は珈琲』では「珈琲」でほぼ統一されている。

珈琲、の漢字ふたつは、凛々しい。かつての僕はコーヒーと片仮名書きしていたのだが、こうした片仮名書きは随分間抜けに見えることに気づいて以来、当て字ではあっても、珈琲、と漢字で書くようになった。

五年前との重大な違いがここにあった。しかし、本のスタイルは前作とほぼ同じ。珈琲に関わる短い文章を集めたものだ。文章と呼ぶにはまだ不完全な、断章と呼ぶのがふさわしいようなものもある。

ところで、真ん中あたりに、どこを探しても珈琲が出てこない文章がある。喫茶店も出てこない。どういうことか?

「あとがき」を読んで、これだな、と思った。

どのエッセイも、なんらかのかたちで、珈琲とつながっていること、という提案を僕は受け入れた。いくつかは珈琲がまったく出てこなくてもいいだろう、と思ったからだ。それは結局ひとつだけになった。

僕が、珈琲が出てこない、と不審に思った文章はその「ひとつ」だったようだ。しかし、「あとがき」をあらためて読み返してみて、珈琲が出てこないにしても、どの文章も珈琲と何らかのつながりがなければならないはずだ、ということに気づいた。さて、その文章のどこが珈琲とつながっているのか、読み返してみるが、わからない。

その答えはやはり「あとがき」にある、と僕は思っている。

なにかを飲みたくなってきた。何がいいか。熱いものが好ましい。珈琲か。ペルーのやや深煎りの豆がある。ブラジルの豆がある。インドのものも。ネパールから届いたばかりのシティ・ローストがある。いっそのこと、紅茶にするか。良きアールグレイを夕方に飲むのも、悪くない。

珈琲のエッセイ集の、最後の文章の、結末がこれだ。紅茶!

何か飲みたい、珈琲か、いや紅茶も好ましい…この時点で紅茶も珈琲とつながっていると言える。だとすれば、あの珈琲の出てこない文章にも、珈琲とつながるものは出てくるではないか、と納得がいく。味のある魅力的な文章である。はずすわけにはいかなかっただろう。