テキスト読みの可能性

テキスト読みとエピソード読み。文学教材の理解に至る通路としてどちらを取るかは考えどころである。もちろん、どちらかだけを採用することはあり得ない。作品に応じて、両者のバランスを取りながらアプローチしていくのが、教室での普通のやり方である。
しかし、僕はほとんどの場合テキスト読みに重点を置きながら授業を進めるよう心掛けている。というのは、まずは作品そのものと向き合わねば話にならないからだが、実際のことろ、特に短歌・俳句の鑑賞のような授業の場合、生徒はともすれば周辺情報の収集に頼りがちな傾向があるように思われてならないのだ。インターネットの活用によって膨大な情報へのアクセスが可能になったが、その情報が作品のそのものの理解に生かされない場合も多い。それよりも、少ない文字情報からいかにイメージを膨らませていけるか、そこに力を注いでほしいのだ。

加藤治郎『短歌のドア 現代短歌入門』(角川短歌ライブラリー)所載の「水銀とレインコート テキスト読み、エピソード読み、評価史的読み」はなかなか興味深かった。

筆者は

 テキスト読みとエピソード読み、どちらを取るかと言えばテキスト読みである。作品を離れて、作品を取り巻く情報から読み解くのは本末転倒である。

と断言したのち、近藤芳美の

 水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中

を取り上げ、その「テキスト読み」を掲げた後、さらにいくつかの「エピソード読み」を並べている。時は終戦後まもなく、「部屋」は作者の勤め先のビルの6階、そこから東京湾の海が見える…こうして歌の背景を知ってしまえば、どうしても読みはその事実に引っ張られる。まして、「自歌自注」となると、どうしてもそこから離れた読みは難しくなる。
だが、筆者は「自歌自注」を正解とする必要はない、「もっと素晴らしい読みが生まれる可能性はある。」という。
テキストと正面から向き合えば、教室の中からも「素晴らしい読み」が生まれる、そう期待したい。