コーヒーと過ごす時間

   『珈琲が呼ぶ』は、『コーヒーが呼ぶ』ではいけなかったのだろう。それでは本の売り上げが何割かは下がるという判断があったかもしれない。本文中では(「スマート珈琲店」のような店の名前は別として)「珈琲」は出てこなかったと思う。たぶんすべて「コーヒー」だ。日本語の表記法の豊かさ、複雑さ、微妙さを思う。

珈琲が呼ぶ

珈琲が呼ぶ

 

この本は、コーヒーについて書いてある本ではなくて、コーヒーが出てくる本だ。コーヒーを飲む場面が出てくる映画や漫画の話、歌詞の中にコーヒーが出てくる洋楽の話、著者がよく行った喫茶店の話。どの話の中でも、どこの産地のコーヒーが苦いとか、酸味が強いとか、どうやって淹れたコーヒーが旨いとか、コーヒーの味についての蘊蓄などは一切語られない。その点では徹底していると言える。

極論してしまえば、著者にとってコーヒーの味はあまり問題ではない。どういう状況で飲んだか、つまりどこの喫茶店のどこの席で(どんな椅子で)飲んだか、飲みながらどんな原稿を書いたのか、誰と一緒に飲んだのか、その誰かとどんな話をしたのか、つまりはコーヒーと共にどんな時間を過ごしたかが問題なのだ。だから、インスタント・コーヒーだってコーヒーのうちだ。インスタント・コーヒーの出てくる「砂糖を入れるとおいしくなるよ、と彼は言う」や「『よくかき混ぜて』と店主は言った」などは、実に味わいの深い魅力的な文章だ。

実は僕にとって、片岡義男はこれが初めての本だ。独特の硬めの文体は、慣れると癖になるようだ。コーヒーを飲みながら、もっと他の片岡義男を読むとしたら、何が良いのだろう。