「自粛」の時代

 昨日取り上げた飯田龍太の随筆集『紺の記憶』には、井伏鱒二との思い出を語り、その作品に触れた文章が何編か収められています。「余韻豊潤」もその中の一つです。僕はそこで取り上げられている「釣宿」という随筆に強く興味をそそられ、久々に井伏の文章を読みたくなりました。これは『早稲田の森』という随筆集に収められています。(久々に本棚から取り出してみたら、こんなに変色していました。)

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 読み始めると、ぐんぐん井伏ワールドに引き込まれてしまうのですが、作中「自粛」という言葉が出て来たところでは、ふと立ち止まって考えこんでしまいました。
 これは「釣宿」という題名からも想像できる通り、釣好きだった井伏の思い出の中の出来事のいくつかが語られるのですが、その中にこんな一節があるのです。

戦争中から戦後にかけて、数年間というもの私は河津川に行かなかった。太平洋戦争になる前の、仏印占領の戦争のころでも釣は遠慮しなければいけなかった。私はそんな経験はなかったが、私の釣友達は釣支度で駅へ行く途中、見知らぬ通行人に呼びとめられて非国民だと面罵されたそうだ。また、どこかの人が釣をしているところを密告されて呼出され、工場へ徴用されたという話も聞いた。幾ら釣をしたくっても、自粛していなくてはいけなかった。

 戦争と、ウイルスと、同一視はできませんが、かつてはこんな時代もあったのだと、今の状況と重ね合わさずにはいられません。
 「自粛」という言葉はこの後にも続けて出てきます。

石田屋の隠居は戦争中になくなったそうだ。釣にも増して賭けごとが好きでたまらなかった隠居だが、村長時代は責任のある身だから固く自粛した。晩年は戦争中だから止むなく自粛して、思いながらも何十年間に及んで博奕をすることが出来なかった。だから臨終のとき、家族の者をはじめ親戚一同を枕元に集め、咽から手の出るほど好きな博奕をさせた。隠居はそれを見ながら息を引きとったという。土地の釣師がそう云っていた。(中略)冥途の土産に博奕を見るとは、よくせき自粛に自粛を重ねていたに違いない。

 「石田屋」というのは井伏が伊豆の河津川に鮎釣りに出かけた際に利用した旅館です。「土地の釣師」の話に、さらに井伏流の脚色が施されて出来上がった話には違いありませんが、それにしても確かにこんな人もいたのであろうということが、こんな世情だからこそ胸に響きます。
 自分の好きなことに、誰にはばかることもなく打ち込めるという状況が当たり前なのだ、という考え方を改めなくてはならないのでしょうか。それとも、それが当たり前の状況をまた取りもどさなくてはならないのでしょうか。今回の世界中での自粛は、CO²排出量の減少につながっているようですが、地球温暖化を食い止めるには、このくらいの行動抑制を長期間継続することが求められているのかもしれません。ウイルス問題が解決したとしても、僕たちの生活がすべてもとに戻ってしまって良いのか、と疑問に感じます。
 いずれにしても、環境問題なども絡めながら、新しい価値観を模索しなくてはならない時代に、今僕たちは生きているのだということをはっきりと自覚すべきなのだと思います。