旅の窓

旅する力―深夜特急ノート (新潮文庫)

名作紀行文、『深夜特急』が生まれるまでの舞台裏と、その後日談を語り、旅の本質に迫る、興味深いエッセイ集。

 ひとりバスに乗り、窓から外の風景を見ていると、さまざまな思いが脈絡なく浮かんでは消えていく。そのひとつの思いに深く入っていくと、やがて外の風景が鏡になり、自分自身を眺めているような気分になってくる。
 バスの窓だけではない。私たちは、旅の途中で、さまざまな窓からさまざまな風景を眼にする。それは飛行機の窓からであったり、汽車の窓からであったり、ホテルの窓からであったりするが、間違いなくその向こうにはひとつの風景が広がっている。しかし、旅を続けていると、ぼんやり眼をやった風景の中に、不意に私たちの内部の風景が見えてくることがある。そのとき、それが自身を眺める窓、自身を眺める「旅の窓」になっているのだ。ひとり旅では、常にその「旅の窓」と向かい合うことになる。

 バスや電車の窓から風景を楽しんでみたい。長いこと、そんな楽しみから遠ざかってしまったような気がする。でも、あまりに緊張を強いられるのはつらいし、自分自身と向き合い続けるのも、御免だ。疲れてすり減った自分自身はどこかに置いて、のんびりとした時間を過ごしたいと思う。しかし、それで本当に旅をしていることになるか?

 三木清は「人生論ノート」の中の一編、「旅について」において次のように語る。

旅において出会うのはつねに自分自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自分自身に出会うのである。旅は人生のほかにあるのではなく、むしろ人生そのものの姿である。

 旅に道連れがあれば、その人がいかなる人間であるかを旅が教えてくれる。ひとり旅の場合、常に自分と向き合い、自分がいかなる人間であったかを発見せざるを得ない。発見するとは、それがその時まで未知であったということだ。自分にとって自分ほどわかりにくいものはない。ひとり旅とは、そのわかりにくい自分を道連れにし、自分を発見し続ける営みということになる。だとすれば、のんびり気ままにひとり旅、というのは不可能だ。やっかいな自分自身というやつをどこかに置いて旅に出ることはできない。