「創造」としての「鑑賞」

現代秀句

現代秀句

  • 作者:正木 ゆう子
  • 発売日: 2020/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 帯に「鑑賞、すなわち創造」とあるが、文学作品の鑑賞、とりわけ俳句の場合は読者に「創造」力が求められる。たとえば、橋閒石の句、


柩出るとき風景に橋かかる


の場合。筆者は、この橋を「柩出しのときに、死者のために虹のように架かる彼の世への橋」とも、「柩を運ぶ一族が渡る現実の橋」とも解釈できると言い、「読み手はどちらの世界に遊んでもいい」という。俳句は読み手によって解釈に幅があり、その幅の中で「遊ぶ」喜びこそすなわち「創造」する喜びなのだ。俳句の場合、読み手の多くが実作者でもあるという事情にも、それはつながるだろう。また、必然的に優れた作り手は優れた鑑賞者にもなり得るわけで、そのことはこの本が実証していると言える。


ところで、「初版後記」に面白いことが書かれている。筆者とのやり取りの中で、本書の編集者が前掲の橋閒石の句について、「柩そのものが橋なのではないか」という読みを示したというのだ。

 私は目からうろこが落ちる思いであった。もしかして自分だけがこの句をそういうふうに読まなかったのかもしれないと思い、念のため橋閒石の弟子である友人に聞いてみたが、友人の読みも私と同じであり、佐藤さん(編集者)のようには読んでいなかったという。そして友人もまた、佐藤さんの鑑賞が最も作者の意図に叶っているのではないかと言うのである。
 私はその項を書き直そうかと思ったが止めた。こうして後記に書けばよい。俳句に間違った鑑賞などめったにないのだから、最初に書いた鑑賞はそれでいい。それより編集者が直感的に感じたことが、閒石の弟子よりも私のような長年のファンよりも鋭く、一句を読み解くという事実に、俳句という文芸の豊かさを思ったのである。

こうして自分の思いもしなかった解釈に出会えることも、「創造」としての解釈を許す俳句のすばらしさなのだと思う。(ちなみに今の僕は、柩そのものが橋だとは考えない。この橋は向こう側が霞んで見えないくらい長い橋、渡り切るのにどのくらい時間がかかるか想像もつかないような長い橋だ。)