小説と小論文

小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

本を読んでいて、今やっている授業のことを思い出す、ということはよくある。
保坂和志『小説の自由』を読んでいて、小説を書くっていうのは、小論文を書くこととも似ているなあと思った。
小論文と言うのは、自分の意見を論理的に述べるものだ、というふうに教えるけれども、じつは「意見」を述べるのは最後の方で、分量から言ったら7割8割は、意見につなげるための具体的な事実を書くことに費やされるべきだ。少なくとも僕はそう思っている。だから、今も小論文の書き方を教える授業では、意見を書くことよりも、自分の見聞した事実、経験した事実を書くことを練習させている。
そもそも生徒が書いてくる「意見」は、たとえば環境問題がテーマだとすると、「資源を大切にしよう」とか「リサイクル活動の輪を広げよう」とか、まあ誰もが思いつくようなありきたりなものに限られる。それ自体何の新鮮味もないし、面白味もない。
しかし、そういう意見が引き出されるきっかけとなった書き手の見聞やら体験やらについての記述には、その書き手のものの見方の独自性が表れる。なぜなら、具体的な出来事や事実を述べようとするとき、書き手はまだ漠然としている「意見」に向けて、素材の取捨選択やら再構成やらを行っているからだ。つまり、そのとき書き手は「考え」ている。「考え」た結果の「資源を大切にしよう」は、既に存在する「考え」をなぞったのと同じことだが、そこに至る道筋にはその書き手のオリジナリティという価値が生じる可能性がある。
だから、小論文は結論を急いではならない。文章の素材としての自己の見聞、体験とじっくり向き合い、それを言葉にすることに力を注ぐべきなのだ。その結果、書き始めるときに漠然と頭にあった「意見」が思わぬ方向にそれてしまい、違う結論に至ってしまうこともあるだろう。だから、小論文の「意見」は最初に書いてしまわない方がよい。意見を決めてから、それを述べるための具体例を並べるのではなく、まず具体的事実から考え始めるべきなのだ。
こんなことを考えるきっかけとなったのは、『小説の自由』の次の箇所だ。

考えるということは、既知のものを辿り直すことではないし、知識を整理することでもない。(中略)自分が考えていることがすでに形となっているのなら書くことはたいして難しくない。
そうではなくて、「自分が考えようとしていることが、どういうことなのか自分自身でもよくわかっていない」ことを書くから、書くことは難しい。(358ページ)

実例にはそれだけで思考を生み出す力がある。それは論旨を補完するための思考ではなく、論旨を引っ張っていく思考で、事前に想定されていた論旨は実例の力によって思いもかけない遠いところにまで連れていかれることになる。つまり、「実例を使って考える」のではなく、「実例が考える」。(361ページ)