中谷豊句集『火焔樹』を読んで印象に残った句の一つが、
背泳ぎの空に未来を見し日かな
だ。この句を読んで、僕はすぐに石田響子の
背泳ぎの空のだんだんおそろしく
を思い出した。背泳ぎをしながら見た空におそろしさを感じることと、未来を見ることの間には、連続性がありそうに思う。
水の上に仰向けになって見る青空は、自分を吸い込んでしまうような恐怖を感じさせる。地面に立って空を見上げるときは、そんなことはないのに。体が浮かんでいるというよるべの無さが、人にそんな恐ろしさを感じさせるのだろうか。そしてその恐ろしさの感覚は、無限大の空間の広がりの中における自分という存在のちっぽけさの認識につながる。
背泳ぎの空に「未来」を見たのは作者がまだ若い(幼い?)時のことだろう。空という空間の広がりに茫漠たる時間の広がりを感じたその時の作者は、その時間の広がりに自分の将来への無限の可能性を見ていたに違いない。しかし、そこには一抹の不安がなかったはずはないし、水に浮かぶ自分自身のちっぽけさの認識があったならば、その「未来」が不安と共にあったであろうことは間違いない。
この句は、石川啄木の代表歌の一つ、
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
にも一脈通じるものがあると思う。
足裏の涼しき日なり体重計
四股踏んで丘の上なる四月かな
秋鯖のバケツに立てて売られけり