未知のミラノ、思い出の北八ツ

活字を追いながら見知らぬ土地の風景やそこで営まれる生活に思いをはせるというのも読書の一つの楽しみだけれど、活字を手がかりにかつて歩いた場所の記憶を懐かしく呼び覚ますというのもまた読書の楽しみの一つだろう。

イタリアは僕にとって未知の土地だ。といってももちろんイタリア料理やイタリア音楽などを通じてある程度のイメージは持っている。正直言って、僕にとってはぜひ訪れてみたいと思うほどの魅力を感じさせる国ではない。これまで僕は、イタリア人の気質というのは何となくだけれど馴染みにくいもののように思い込んでいた。
しかしながら、須賀敦子『ミラノ 霧の風景』を読んでいるうちに、自分の中のイタリアに対するイメージが少しずつ変化してくることを感じる。気さくで明るいとか、楽天的とかいった形容は、浅薄で一面的な理解から出てくるものであって、彼らがいかに重厚な歴史を背負って生きているのか、陽気な笑い声の陰にどれだけ深い悲しみを秘めているのかということを思い知らされる。もちろんこれは、須賀敦子の温かい人間観察力があって初めて描かれる、イタリアの一面なのだ。
    *     *    *     *     *     *『北八ツ彷徨』という書名に以前から惹かれるものを感じてはいたが、たまたま昨日これを本屋の棚に見つけて中をパラパラとめくってみた僕は、迷わずこれを買うことにした。実は『ミラノ 霧の風景』はまだ後ろの方を読み残しているのだけれど、つい先日久しぶりに北八ツを歩いてきたばかりの僕は、次のような一節を見つけて、すぐにも続きが読みたくなってしまったのだ。

北八ツの山歩きには、かならずしも頂上を必要としないのである。道のない原生林の中をさまよってよろこんだり、森にかこまれた小さな草原で無心な夢とたわむれたり、人のいない湖の岸辺で山の静けさに耳を澄ませたり、要するに登山という構えた言葉よりも、山歩きとか山旅とかいうおとなしい言葉のほうが、このおだやかな山地には、すなおにひびく。

僕は活字をたよりに、もう一度あの北八ツの静謐な雰囲気に浸りたいのだ。
もちろん、須賀敦子を途中で投げ出したわけではない。何冊も並行して読むというのがいつもの僕のやり方で、だから一冊読み終わるのに何日もかかってしまう。

高見石から白駒池を望む

朝の高見石小屋