多崎つくるの未決の抽斗

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 話題の新刊を、世間の喧騒が鎮まる前に(つまり本屋の店頭に山積みになっている一冊を手にとって)読むというのは、僕にしては珍しいことだ。新しいものに飛びつくなんて、僕らしくないと思っている。流行のモノに手を出すことが、なんだか恥ずかしい。
 さて今回、1700円+税を投資しただけの価値はあったか。あったと思う。しかし、作品そのものに満足したということではない。今、村上春樹の新刊を読むという行為は、村上現象とでも呼ぶべき世間の大きなうねりの中に自分も参加するということだ。それは作品を読んで、自分なりの感想を得たところで終わるものではなく、メディア(特にネット上)に溢れるさまざまなコメントやら書評らしきものに目を通し、作品に対する不満が自分の読解力不足からくるのではないことに安心したり、自分の思いつかなかった解釈を知って感心したり、自分もまた何らかの情報発信をしたり、ということを含む。つまりは、巨大な読書会に参加する楽しみを味わうということだ。参加費、1700円+税、これは決して高いお値段ではない。
 しかし、作品の質が高いものであったかというと、首をかしげざるを得ない。確かに面白い小説ではあったと思う。わくわくしながら先へ先へと読み進んだ。読んでいる間、充実した時間を過ごしているという実感があった。ところが、それがあやしくなったのは残り数十ページくらいになったあたりからだ。はたしてこのわずかな残りページ数の中で、作品の闇の部分に光をあて、思いがけない真実を照らし出してくれる結末が提示されるだろうか? その結末への期待が、この小説をここまで一気に読み進ませる原動力になっていたのに…
 残念ながら、作品はあっけなく幕を下ろした。平凡とも言える終わり方だった。沙羅の返事を待たずに話が終わってしまったのは良いとしよう。それは読者がいろいろな可能性に考えを巡らせばよい。一番の不満の原因は、灰田との出会いと別れ、灰田の父親が灰田に語ったというエピソードが、作品の後半で何らかの意味を帯びてくるのではないかとの期待に、結局は応えてくれなかったという点にある。作者は灰田という人物を、作品の中で十分に生かしきれなかったのではないだろうか。それとも、まだ僕の読み方が浅いということだろうか? いずれにしても、灰田をめぐる出来事とつくるの「巡礼」を結び付ける十分な情報が与えられていないことは確かだと思う。
 もちろんこの先、灰田に関わる謎を「未決」の抽斗から見事に引っ張り出してみせる読み手が現れる可能性もある。まだ「読書会」は、終わっていないのだ。