少食の人を信用してよいか?

村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドを読んだ。
熱心な村上春樹の読者なら(あるいは同時代の小説界の動向に敏感な人間なら)、とっくに読んでいる作品なのだろうが、常に世の中の流れに乗りそこねている僕の場合は、たまたま古本屋で、すっかり日に焼けた新潮文庫上下組210円を手に入れなければ、この本を永久に読まないで終わる可能性もあった。古本屋はどこも村上春樹をあまり並べていないのだ。手放す人が少ないのだろうか、それとも店に並んでもすぐに売れてしまうのだろうか。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

(↑僕が読んだ文庫は、これとほぼ同じデザインの表紙)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

(↑今、本屋で売ってるのはこれかな?)
この小説は上下巻あわせて700ページほど。いつもの一日平均2〜30ページのペースで読んでいたら、一か月以上かかってしまう。実際、上巻は2週間くらいかかって読み終えた。なにしろ仕事から帰って夕食後に本を開いても、すぐに襲ってくる睡魔には勝てず、ほとんど進まない日が多いのだ。ところが、下巻は一気に読み終えてしまった。というのは、先日の青春18切符の旅の友に、こいつを連れていったからだ。
今回の行き先は多治見。もちろん、陶器店や陶器の資料館を見て歩くのが目的だ。(ついでに、岐阜まで足を伸ばし、友人が館長を務める岐阜科学館にも寄ってみたが、残念ながら友人は指定休とのことで、久しぶりの再会は果たせなかった。でも、歴史を感じさせる岐阜の町は趣があって、なかなか良かった。)
 古い街並みを残した川原町(岐阜)
 しだれ桜が満開の伊奈波神社(岐阜)
 陶磁器のオブジェを載せた橋(多治見)
青春18切符を使って関西方面に向かったのは2度目。前回も感じたが、東海道線の車窓風景はどちらかというと退屈だ。だから、読書に専念できる。昭和63年発行の字の小さい新潮文庫をひたすら読んだ。豊橋行きが終点に着いて乗客がみんな降り、下り浜松行きになっていたのにもしばらく気づかなかったくらいだ。そんなわけで、読書の方は快調に進み、帰りの相模線の車中で読み終えることができた。普通ならあと2週間くらいかかってしまうのが、3日ほどで終わってしまうというのは、住宅ローンを繰り上げ返済して、残り20年を5年に縮めたような「頑張った感」がある。
さて、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、今までに読んだ村上春樹の長編の中で、一番面白く感じた。村上春樹の小説は、さまざまなシーン相互のつながりや、小説全体の象徴的な意味づけが、作者によって明確に語られることなく、不可解なままポンと読者の前に投げ出されてしまうことが多い。この小説もまたそうなのだが、自力で自分なりの解釈を引き出せそうだったり、自分自身の実感と重なりそうな部分が多かったりする点、すなわち自分なりに「わかる」という実感を伴いながら読めるという点で、他の長編よりも愉しめるんじゃないかと思うのだ。
しかしそうは言っても、自分なりの読み方をきちんと文章化して示すためは、青春18切符5日分を使い切るくらいの時間が必要になりそうだ。(『 海辺のカフカ』や『1Q84』だったら、時間があっても僕には絶対無理だなと思う。)でも、それよりもっと気楽に、こんなフレーズをさがしながら読み直す方が、時間の使い方としては有意義かもしれない。

ウィスキーというのは最初はじっと眺めるべきものなのだ。そして眺めるのに飽きたら飲むのだ。綺麗な女の子と同じだ。

「感じたことを自分のことばにするっていうのはすごくむずかしいんだよ」と私は言った。「みんないろんなことを感じるけど、それを正確にことばにできる人はあまりいない。」

「私、少食の人って信用しないの。少食の人ってどこかべつのところでその埋めあわせをしているんじゃないかって気がするんだけど、どうなのかしら?」

気のきいたフレーズや比喩が読者を楽しませてくれるのは、村上春樹の小説ではいつものことだ。少食の人がどこかで埋め合わせをしている、というのは、妙に同感してしまう。