「つくる」

森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』を読み終わって、芸術家と職人との違いについて考えた。

世の中に既に存在するものは、全部具体的なものであり、自分がこれから作ろうとするものは、まだ存在しないのだから、最初は少なからず抽象的だ。抽象的なものから出発して、それを具体化していく行為を「作る」あるいは「創る」と呼ぶのである。

これは芸術家の創造的な行為について述べているのだ。同じ「つくる」でも、職人は違う。職人がつくるものは、あらかじめ完成時のイメージが設計図などの形で出来上がっているか、あるいは既に具体的に存在するもののコピーだ。建築にたとえれば、無の状態から図面を引き始める建築家は芸術家で、その図面に忠実に従って建物をつくるのが職人だ。
同じことを俳句に当てはめてみる。誰かが既につくっているような句(いわゆる「既視感」を呼び起こす句)を手際よく大量生産できる俳人は腕のいい職人、今までに見たこともないような句、どうやってそんな句を思いついたんだろうと思わせるような句をつくる人は芸術家だ。どんな俳人の中にも「職人」と「芸術家」が住んでいて、そのどちらの存在が大きいかはその人によって違う。
職人には、新しいことを思いつくこと、すなわち「発想」は求められないが、芸術家であるためにはそれが必要だ。では、発想する力を付けるにはどうしたらよいか。筆者は、教育には知識を教えること、論理的思考力を伸ばさせることはできるが、発想する力を身に着けさせることはできないと断言する。しかし、発想を生み出すためのヒントを最後の方で示してくれている。

優れた発想とは自然から生まれるものなのだ。思うようにならないのは、人間の頭が作り出した人工の論理から生じるのではなく、人間の頭という自然の中から育ってくるものだからである。したがって、まさにガーデニングや農業と同じで、抽象的思考の畑のようなものを耕し、そこに種を蒔くしかない。発想とは、そうやって収穫するものなのである。

この比喩は、俳句をつくるときのことを思い浮かべれば、実によく納得できる。俳句を生み出す畑を常に耕して種をまいておかないと、収穫には至らない。僕の中の俳句畑はいつも放置されているも同然で、句会が近づくと慌てて耕しはじめるという状態なのだから、収穫は期待できない。
今朝から村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年を読み始めた。多崎つくるの仕事は駅舎をつくることらしい。彼の中の「抽象的思考の畑」は何か価値あるものをつくり出すことができるのだろうか。

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)