「やわらかな心」

今日は俳句を作ってくるぞと思って句帳を携え、たとえば鎌倉あたりをぶらぶらして来ても、結局一句もできずに帰ってくる。下手すれば俳句のことなどすっかり忘れて、句帳を一度も開かずに家に戻る。その理由は明白。締め切りがないから―
藤田湘子『俳句作法入門』の中にも、こんな一節があった。

「俳句を作る」という思いが、ごくしぜんに醸し出されて、作品もまたしぜんにすらすらと生まれてくる、という状態が最も好もしいわけであるけれど、そんなにうまく昂揚し作句できるなんてチャンスは、まあめったにあるものではない。
みんな忙しい日常生活の中に身を置いている。その中からわずかの時間を見いだして作句するか、あるいは、目の前に締切日が迫ったから、さあ今日は五句つくらねばならないと、慌てて句帖を広げる、といったところが実際の姿であろう。

そうだ、締め切りに急きたてられる状況をあえて作りだしてしまおう―
そんなわけで、昨日、『街』の吟行句会に参加してきた。
場所は羽田空港。国際便ターミナルの赤い鳥居みたいなものの前に1:00集合。2:30の出句締め切りまで十分時間があるような気がしたが、時間が経つのははやく、締め切りまでに一句も作れないという悪夢のような結末が早くもチラつき始める。薄日の差す展望デッキのベンチに腰掛けて、発着を繰り返す機体をながめていいても、ちっとも句は思い浮かばない。空港というのは俳句の材料があるような、ないような、とにかく頭は空回りし、あせるばかり。
結局、さんざん眺めていた滑走路もジャンボの機体も句にはならず、締め切り間際になって苦し紛れにひねり出した句を短冊に書いて提出。まあ、一句も出せないという悪夢が現実にならなかっただけで、良しとしよう。
さて、緊張から解放されてみると、なんで自分はあんなにあせってばかりいたんだろうと思う。今のようなリラックスした状態であの展望デッキに座っていたら、もっといい句ができたんじゃないだろうか、と。藤田湘子もさっきの続きに、こんなことを書いている。

私は、いつも「やわらかな心」を持って作句したいと思う。そう言っても簡単にそんな状態に入っていけるわけではないが、うまく「やわらかな心」の状態になれたときは、句もたくさんできるし、できた句も上等だった、ということが言える。「やわらかな心」を一言で説明することは難しいが、緊張を持しながら、しかも対象と同化したような浮遊状態、と言ったらいいか。あるいは、すべての構えが消え去って、詩心のみが鋭く済んでいる、そんな感じ。

締め切り後の、ふとリラックスした状態は、この「やわらかな心」に近いのではないだろうか。だとしたら、あえて自分に締め切りというプレッシャーを与えることは意味がある。いや、もちろん、締め切り前のプレッシャーの中でも「やわらかな心」を持ち続けられれば一番いいんだろうけれど。

俳句作法入門 (角川選書)

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