有からの創造

エネルギーの充満するこの世界が何ものかによって創造されたのだとしても、その創造は、無からではなかった―と考えることは、ぼくを一種の戦慄で満たす。世界の創造は無からなされたのではない、ということは、言いかえれば、世界は<創造>される以前にも、すでにあったのだ、ということだ。…無からの創造、ということは、比喩としてはありうるが、事実としてありえない。(『武満徹をめぐる二、三の観察』)

 大岡信の文章のこの部分を読みながら思い出していたのが、先日読み終えた大竹伸朗の「既にそこにあるもの」の中の次の一節。

僕は全くの0の地点、何もないところから何かをつくり出すことに昔から興味がなかった。新品の真白い紙を目の前にすると、自分が生まれる以前のことから責任をとらされるようで居心地が悪くなる。何に衝動的に興味を持つのか、あえて言葉に置きかえるなら、「既にそこにあるもの」との共同作業ということに近く、その結果が自分にとっての作品らしい。

 そして、たった今、上の一節を打ち込みながら思い出したのが、漱石夢十夜の、「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた」で始まる第六夜だ。

「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。

 引用した三つの文章は、それぞれ内容的に重なる部分があり、それぞれの角度から「創造」という行為の要諦に触れているように思われて、僕には興味深い。どんなに才能のすぐれた芸術家でも、苦もなく無から有を生み出しているわけではあるまい。小説家は真っ白な原稿用紙を、作曲家は真っ白な五線譜を、画家は真っ白なカンバスを前にして、茫漠たる不安を覚えることも少なくないのではないかと想像する。もし、すらすらと何かが生み出されているように見える瞬間あがあるとしたら、それは「既にそこあるもの」たちが何らかの新しい秩序を作者によって与えられているということに他ならないだろう。
 僕は、句帳を開き、俳句をひねり出そうと苦しんでいるときの自分、そして何とか一句を得たときに自分の中で起こっている出来事を思い出してみる。俳句は決して無から有が生み出されるようには出来てくれない。季語という既に何百年も昔からあった言葉と、その他のいくつかの言葉とが有機的なつながりを得て出来上がったのが、自分の俳句だ。
 時には推敲も要しないような形で、ふと句が思い浮かんでくることがある。(残念ながら、めったにないことだけれど…)しかしそれも、無から有が生まれたわけではなく、何かがきっかけとなって「土の中から石を掘り出す」ような結果になったということなのだろう。自分の中に蓄積された「既にそこにあるもの」たちが、無意識の底で、石のように結晶していたということなのだろう。多分…