続・学生に戻った気分で

街場の文体論

街場の文体論

昨日の続きです。内田センセイに提出するレポートを書くような気分で書いてみました。(単位、もらえるかな…)
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先生の講義は、「説明する力」はすごく大切だというお話から始まりました。村上春樹橋本治三島由紀夫も、説明がうまい。核心的なところを適切な言葉で言い当てる。それは技術的には焦点距離の調整が自在だからだ。この能力は「うまく書く」こととは違う。書くことの本質は読み手に対する敬意と愛だ。どうしても伝えたいことを必死に、身振り手振りで、表情豊かに伝えようとする。それを、先生は「情理を尽くして語る」というふうにも言い換えています。これは技術でもあるし心がけでもある。
そして、最後の講義でもまた、同じことを少し言葉を換えて繰り返しています。

「届く言葉」には発信者の「届かせたい」という切迫がある。できるだけ多くの人に、出来るだけ正確に、自分が言いたいことを伝えたい。その必死さが言葉を駆動する。思いがけない射程まで言葉を届かせる。

というのが、それです。先生の講義の中でも核になるのがこの部分であることはよく理解できました。じつは、私はこれとほとんど同じ趣旨の文章を読んだことがあります。元NHKのアナウンサー、山根基世氏の「伝えたいと思うから」と題された文章です。これを私は高校の国語総合の教科書で読んだのですが、中学の教科書でこれを載せているものもあります。確かに国語の教材としてふさわしい内容なんだと思います。
徳島の祖谷(いや)という地では、かつて離れたところに点在する家同士で連絡を取るとき、大声で叫ぶ「呼び言」という方法が採られていた。その「呼び言」を取材した著者は、最後にこのように述べます。

「呼び言」こそ、「話す」ことの原点ではないだろうか。人に何かをどうしても伝えたいという熱い思い。伝わらないときのいらだち、絶望。ようやく伝わったときの歓喜に似た気持ち。人が「話す」とき、思いが相手に伝わってこそ喜びがあるのだと、「呼び言」の体験は教えてくれた。
 どんなにうまく話せたとしても、相手にわかってもらえなければ、そこにはナルシスティックな自己満足しかない。どうしても伝えたいと思うとき、おのずから、わかってもらうにはどうすればいいかの工夫がはじまる。それは「うまく話す」ということとは、まるきり別のことのはずだ。

どうでしょうか。先生があの講義で私たちに強く伝えようとしたメッセージと、山根基世氏がこの文章で言っていることと、ほぼ同じことですよね。表現、あるいはコミュニケーションの根っこのところになければならないのは、「どうしても伝えたい」という思いなのだと私は理解しました。
ところで先生は、「説明する力」のことを「写生する能力」ともおっしゃっています。私はここ十数年、俳句に興味を持ち、ときどき自分でも俳句を作っています。そこで、この「写生」という言葉に敏感に反応してしまうのです。正岡子規が提唱して以来、俳句の基本とされている「写生」ですが、人によってその捉え方が微妙に異なるため、いったい「写生」とはなんなんだろうという問題意識が私の中にはあります。例えば、最近読んだ本で言えば、岸本尚毅氏の『生き方としての俳句』から読み取れる写生観と、今井聖氏が『部活で俳句』のなかで披歴している写生観には、大きな隔たりがあります。
そして、今回先生の講義を聴かせていただき、俳句における「写生」も、人によってとらえ方に幅はあるものの、その根本にあるのは「言葉を届かせたい」という思いなのではないだろうか、と考え始めました。そしてこれもまた、技術であり心がけでもあると。すなわち、575という定型の枠の中で何かを伝えるのは至難の業なわけですが、その困難をなんとか乗り越え、感動を伝えるための方法と姿勢が「写生」なのではないか、ということです。
さらに先生の講義を俳句に結びつけるなら、「言語という檻」というのが俳句における日本語、あるいは575という定型に相当します。俳句を作るという作業は、まさに「檻ごと動く=定型を身体化する」ことではないか。「言語の冒険は定型を十全に内面化できた人間だけに許される」という部分に至っては、もう俳句のことを言っているとしか思えなくなってしまうのです。
しかし、こうしてなんでもかんでも俳句と結びついてしまうというのも、当然と言えば当然のことですよね。俳句作りはまさに「クリエイティヴ・ライティング」そのものなんですから。