創作としての写生

今年度も「今日の俳句」と題して、国語総合の授業の中で俳句を一句ずつ紹介している。
一番最初の授業で取り上げたのは、高野素十


空をゆく一とかたまりの花吹雪  


ちょうど、満開だった桜が散り始めた頃だったから、生徒もピンとくるだろう。そこで、黒板にこの句を大きく書いてから、生徒に「こういう景色、見たことあるだろ?」と聞いてみる。ところが、どうも生徒の反応がよろしくない。あれ、難しい句じゃないと思うんだけどなあ。
さて、岸本尚毅『俳句のギモンに答えます』を読んでいたら、素十のこの句について、こんなことが書いてあった。

この句と出会うまで、私たちは「一とかたまりの花吹雪」が空をゆく風景を知っていたでしょうか。仮に眼には映っていたとしても、それが本当に「一とかたまり」と認識されていたかどうか。
この句は、実際に「一とかたまり」の落花が飛ぶのを見たから、それをそのまま説明した句だとは思えません。むしろ「一とかたまり」という言葉を通して、素十がこのような花吹雪の姿を発見した、というよりも、発明し、造形した、といっても過言ではないと思います。

そうか、生徒に対しては「見たことあるだろ」と問うのではなく、「ここに描かれたイメージを頭の中に作り出してごらん」と言うべきだったかもしれない。「一とかたまりの花吹雪」が素十の造形物なのだとしたら、それは現実のどこを探しても存在しない。僕は「一とかたまりの花吹雪」を見たことがあると思い込んでいたのだけれど、それはかつて素十の句を読んだ時に頭の中に出来上がったイメージが、時がたつにつれて実際に見た景色であるかのように居座っていただけだったのだ。


岸本尚毅は先ほどの引用部に続けて、次のように言っている。

写生という言葉は、ありのままを写すという意味に捉えられがちです。「ありのまま」ということ自体もじつは大変難しいのですが、それにもまして写生とは、言葉を素材にした創作、造形であると考えるのが、俳句の真実に近いと思います。

創作としての俳句は、読者にも創造的な態度を要求する。現実に縛られていたら、「一とかたまりの花吹雪」のイメージは作り出せないだろう。

角川俳句ライブラリー  俳句のギモンに答えます

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