杭としての短歌

詩集『セラフィタ氏』横浜市立中央図書館の、個人句集の棚に(長谷川櫂金子兜太らと並んで)置かれていた。なぜ?

セラフィタ氏

セラフィタ氏

黄金町駅の改札を出て、京浜急行のガード下に立つ警官の横をそそくさと通り過ぎ、日の出町駅前のストリップ劇場の看板に一瞥をくれてから、野毛山方面への坂を見送って一旦は桜木町方面へ向ったものの、また引き返して結局は中央図書館の俳句の棚の前に立つことになるという、迷走気味でよそ目には不可解な僕の行動を見透かしていた誰かが、わざと僕の目につくように、本来は詩集の棚にあるべき本を俳句の棚に移したのだろうか。まさか。
句会の席で二三度お目にかかったことのある柴田千晶氏の本を、俳句の棚の中から発見するというのも面白い偶然だと思う。


さて、この作品においては「散文的」という語が重要な意味を担っているように思われる。作品中の「私」の(性)生活の満たされなさは、それが「散文的」であるところから来ている、という仮定からスタートして、その後の夢とも現とも判然としない男たちとの交渉の象徴的な意味を読み解いていこうとするところに、この作品を読む面白さがあるのだと僕は感じた。
また、「散文的」という語は、(短歌や俳句と違って)定型を持たない詩という形式の寄る辺なさを作品の外から照らし出す光でもある。そして、ともすると「夢」というあやふやなものの中に溶けてすべての意味が消滅してしまいそうな危うさを抱えた作品の中にあって、「詩」をつなぎ留めるために打ち込まれた杭のごとく、あるいは持続の生み出すマンネリに楔をさすごとく見事に働いているのが、作中に挿入された藤原龍一郎氏の短歌だ。(だから、作中人物の一人としての「藤原さん」という男は、「私」にとって唯一信頼を寄せるに足る人物として描かれている。)


もしかしたら、と僕は思う。『セラフィタ氏』は、「散文」化=マンネリ化した俳句に打ち込む楔として、何者かの手によって意図的にあの俳句の棚に置かれたのではなかったか、偶発的な間違いとしてではなく。しかし、だとしたら楔としての『セラフィタ氏』を手にするのはこの僕で良かったのだろうか?