「定型」というレール

アーサー・ビナードのエッセイを読んでいると、読み手を引き込むユーモラスな語り口とテンポの良さ、そしてとても気の効いた結びの一文にいつも感嘆する。そして、自転車のことがしばしば話題になるのが、僕にとっては興味深い。

出世ミミズ (集英社文庫(日本))

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今日読んだ「レールを感じさせない、宮柊二の短歌列車」と題された文章は、著者がどうして東京都内を電車でなく自転車で移動するかについて書いている。そしてそれが詩の話につながっていく。

…自分がなぜ電車を避けてきたか…なんといってもやはり、進む方向を定めてしまう、このレールがいけない。池袋から、例えば三鷹へ行くのに、いろんな道があってしかるべき。……けれど電車となると、いやおうなしに新宿乗換え・中央線だ。もちろん道だって、国か都か市かが舗装して、方向が定められているものだけれど、いつどこで右折、また左折するか、歩道をのんびり走るか車道をぶっとばすか、自由に選べて、自分らしく行ける。
 詩人のハシクレの僕が定型詩を極力避け、いわゆる自由詩にばかり走るイワレも、きっとそこにある。

なるほど、レールの上を走る電車=定型詩、コースを選んで走れる自転車=自由詩、か。
アーサー・ビナードは「ソネットの十四行のレール」に乗らない「自由詩」の書き手だ。でも、偶然のきっかけで短歌の会に入り、短歌を作っている。そして、宮柊二のこんな作品と出会う。


 自転車を道に駆りこし修道女えごの木下に降りて汗拭く


詩を作る人の中には、定型という「レール」への憧れがあるのか、俳句を作るという人も多い。僕は自転車に乗ることも、電車で旅することも好きだけれど、詩に関しては、「レール」がなければどこへも行けない人間だ。「五七五」というレールに乗ったからこそ、表現する楽しみと出会えたという実感がある。
それにしても、次の一節は、俳句結社のスローガンとして実によくできているではないか。

私たちの俳句よ
驀進する「今」という機関車に跳び乗ろう
(「街宣言」より)

何だかこの「機関車」、レールのない所でも突っ走って行きそうだけど。