違和感が支える現実感

穂村弘の『短歌の友人』を読んだ。

  くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを   吉川宏志

について、筆者は次のように言う。

「かたむけり」が一首にリアリティを与えている。現実には真っ直ぐであっても「かたむけり」と書くことで「実感の表現」が可能になるとも云える。「大きく」ではなく「かすかに」かたむいていることも重要だ。違和感が小さければ小さいほど読者の受け取る現実感は逆に大きくなる。

筆者はさらに、

  おさなごの椅子の裏側めしつぶの貼りついており床にしゃがめば  吉川宏志

の「めしつぶの貼りついており」

  所在なき訪問客と海を見るもろもろペンキはがれる手すり  東直子

の「もろもろペンキはがれる」も「具体的で小さな違和感」で、これが「本当にあったことだ」という現実感を支えるのだ、という。

僕はこの「小さな違和感」を「発見」とか「気づき」とかと言い換えてもいいのではないかと思う。言われてみればそうだという、些細な事実や出来事への気づき。小さかったり「かすか」だったりするからこそ、ありふれた事柄であるにもかかわらず、気づきにくい。そこに気づいて言い留めたことが驚きとなり、読者の共感を得ることができる。

俳句において、しばしば「写生」の重要性が説かれるのは、それが小さな「発見」に至るための一つの方法として有効だからだろう。上に挙げた歌はいずれも俳句的。それらにみられる「違和感」はいずれも俳句形式の中で生かすことも可能な性質のものだと感じさせる。