目まいのする散文

目まいのする散歩 (中公文庫)

目まいのする散歩 (中公文庫)

私たちは、たしかに参拝にきたという証拠に、おさい銭をあげることにしている。女房が勝手につかみだして投げ入れたお金は最低十五円かそこらで、たまに小銭がないときには百円位はいれているだろうと私は判断している。十円玉と五円玉とどっちが私の分で、どっちが彼女の分だかは、私にも彼女自身にも判明しない。

 私(武田泰淳)のものか、彼女(武田百合子)のものか判明しないのは、おさい銭だけではない。表現の主体がどちらなのか、不分明な箇所は何か所も出てくる。たとえば次の箇所。

女房は一人歩きが好きらしい。好きなところに歩いて行き、好きな場所にだけ長くいられることが、性分に合っている。私は、彼女と一緒の方が都合がいい。夕食後、彼女は一人だけ抜けだして、広場を散歩した。昼間でも少なかった人影は、どこかにのみこまれて、残った人々も、今にものみこまれそうに静かにしていた。花壇のそばのベンチに、三、四人ずつ休んでいるロシア人のうち、学生風の青年は、彼女が通りかかると、組んでいた足を揃えて席を空けてくれる。彼女はぼんやりと坐り、快感を味わって、しみじみとしている。

 不思議だ。「彼女」は一人だけで散歩している。「私」はその時刻には「いびきをかいて眠っていた」のだ。しかし、「私」は「彼女」の一人だけの散歩の様子を詳細に記述している。
 この作品は、全編、武田泰淳が口述し、妻の百合子が筆記して出来上がったそうである。しかし、百合子は筆記者の役割にとどまっていただろうか。夫の口述の内容が自分自身の事柄に及んだ時、自らが表現主体となってペンを走らせてしまったのではなかろうか。
 それとも。泰淳は、自らの見聞の及ばない部分を百合子の記録によって補ってもいるようだ。その部分を、いちいち「彼女の日記によると」などと断わらず、あたかも自分自身の経験のように書いてしまった結果、このような文章になってしまったのだろうか。

天山山脈は、見えつづけている。「まばたき一つしても惜しい」と、彼女は思った。

などという書き方も変だ。通常は「彼女は思ったそうだ」「彼女は思ったようだ」とするところだろうが、泰淳は「思った」のがあたかも自分自身であったかのように書く。
 散歩の時は、ほとんど常に夫婦一緒だったようだが、「目まいのする散歩」を読んでいると、その二人の人格を分け隔てているはずの境界線が溶け出し、あいまいになっているかのような思いにとらわれてしまう。
 散歩の途中で目まいを覚えるのは、病がまだ癒えていない筆者だけではない。筆者(とその妻)の散歩に付き合っている読者もまた目まいにおそわれそうになる。この本はまさに、目まいのする散歩、いや、目まいのする散文なのである。