ダイアローグ(No.3)

 最近よくコメントをくれる人、すいとん
 ああ、「すいとん大将」か。
 その人、知ってる人?
 知ってるも何も、大学時代の同級生で、一緒によく山に登ったりした仲だよ。彼がノートを貸してくれたおかげでやっと単位が取れた科目もあるんだ、西鶴の授業だったかな。
 恩人なのね。
 彼の実家はりんごを作っていて、初めておじゃましたときはりんごをリュックからはみ出すくらい詰めてもらって帰ったなあ。あれからもう30年も経っちゃった…
ところで、りんごで思い出したけど、『ジャンプ』は読み終わった?

ジャンプ (光文社文庫)

ジャンプ (光文社文庫)

 面白くて、イッキに読んじゃった。こないだの朝日新聞の読書欄で評論家が、佐藤正午のこと、すごく褒めていたわね。「抜群の語り部」とか「文壇で五指に入る『小説巧者』であると僕は断定する」とか。
 ああ、池上冬樹という人が『5』という小説を取り上げていたね。「病気と涙と感動のないところで愛を語る、反『世界の中心で、愛をさけぶ』ともいうべき洗練の極致の秀作だ」なんて書いてあると、もう絶対に読もうと思っちゃう。「セカチュー」は、どうしてこんなのが売れるんだって、不思議に思いながら読んだものだけど…
 こんどは『5』も読んでみたいし、『Y』も読んでみたい。
 うん、僕も『Y』はもう買ってあるんだ。ところで、『ジャンプ』を読んでみて、何かコメントはないの?
 そうね、やっぱり最後の場面はぞくぞくしたわ。でも、ちょっとひっかかったところがあるの。
 どこ?
 冒頭の一行。「一杯のカクテルがときには人の運命を変えることもある」って書いてあるでしょ。でも、この話の場合、本当にそうだったかなって思うの。主人公の三谷がカクテルを飲んでも飲まなくても、結果は大して変わらなかったかもしれないんじゃないかなって。
 結果っていうと?
 三谷の彼女、南雲みはるの人生よ。どっちにしても彼女が三谷と結婚することにはならなかったんじゃないかしら。だって、彼女の意志を決めたのは…
 おっと、その先は言わない方がいいよ。これからこの小説を読む人のために。
 「ネタバレ」ってやつね。
 その言葉、僕は何だか嫌いで使いたくないけど。それはともかく、君の言いたいこと、わかるんだ。僕も同じようなことを考えた。それで最初の所をあらためて読んでみたんだ。冒頭に続けてこう書いてある。
しかも皮肉なことに、カクテルを飲んだ本人ではなく、そばにいる人のほうの運命を大きく変えてしまう。
これは『格言』ではなく、個人的な教訓だ。
あるいはもっと控え目に、僕自身の今の正直な思いだと言い替えてもいい。
僕がこれから語ってゆく事件の内容は、結局のところ、その教訓ないしは思いに集約されるだろう。

ここで注意したいのは「思い」という言葉。ここには原文では傍点がついている。強調しているんだ。
 そうか。カクテルが人生を変えたというのは、三谷の思い込みに過ぎないってことなのね。
 そう。「一杯のカクテルがときには人の運命を変えることもある」というのは、著者・佐藤正午が言っているんじゃないんだ。著者・佐藤正午が作品中の主人公・三谷に言わせているんだ。つまり、佐藤正午は、三谷をそういう男として描いている。
 つまり、まだことの真相をつかみそこねているちょっと鈍い男として描いているわけね。
 その通りなんだけど、それはちょっと三谷には酷な言い方だね。三谷はまだ自分の身に起きた「事件」を冷静に振り返る「地点」に立たされていないんだ。じつは、先のほうにこんな一節もある。
もちろん、一杯のカクテルが人間の(それもカクテルを飲んだ本人ではなくそばにいる人間の)運命を変えてしまうという言い方は、これから僕の語ってゆく事件の核心からも遠く外れているかもしれない。でも、たとえどの程度核心を外れていようと、何かを話し始めるにはある地点に立つ必要がある。
ある地点に立って、そこから目に見えるものを見て、そして自分なりに頭を使って考えたことを語ってゆくしか方法はない。

 そうか。三谷よりもよっぽど「事件」から離れたところに立って読んでいる私の方が、「事件」を覚めた目でとらえることができるってこともあるわけね。
 三谷自身にも、自分に「事件」の「核心」がまだ見えていないかもしれないという思いがある。でも、それでも今の地点から今の自分の正直な気持ちを伝えようと語り出されたのが、この物語なんだね。著者は、主人公に語らせる形で物語の骨組みを周到に示しているんだ。
 小説の語り手がだれで、どういう地点に立って語っているのかってことが大切なのね。
 そうだね。実はこれは小説を読むときの基本のはずなんだけど、意外とそこに注意が払われないことがあるんじゃないかな。その点、佐藤正午は語り手の視点がどこにあるのかをまず厳密に定めようとする人みたいなんだ。彼の『小説の読み書き』(岩波新書を読んでいてそう思ったんだけどね。これも面白くて、読み出したらやめられない本だよ。語り手がどこにいるかにこだわることで、よく知られた作品に新しい光があてられる。
 しばらくは佐藤正午についての講釈を聞かされそうね。
 ははは、覚悟しといてくれよ。ここで一つだけ言っておくとね、森鴎外の『雁』について書いた文章の中で、著者はこの鴎外の作品に触発されて「一個のリンゴをほしがったせいで人の運命が変わってしまうと言う小説」を書いたと言っているんだけど、これって…
 『ジャンプ』のことよね。でも正確には「一個のリンゴをほしがったせいで人の運命が変わってしまったと思っている男のことを書いた小説」と書くべきかもね。
 そういうこと。