今年登った山
1月11日 子の権現からスルギ尾根(奥武蔵)
2月8日 宮ケ瀬湖南山歩道
4月5日 檜岳、雨山(丹沢)
5月31日 加入道山(丹沢)
8月8日 飯盛山
8月9日 編笠山、西岳
9月21日 茅が岳
12月26日 日向山(南アルプス前衛)
今年読んだ山の本
もう一冊、若菜晃子『街と山のあいだ』は、今読んでいる途中。
漱石の『こころ』と言えば、高校の現代文の教科書中の定番であり、名作中の名作のように崇め奉られているのだが、坂口安吾の手にかかってはひとたまりもない。
私はこの春、漱石の長編をひととおり読んだ。…私は漱石の作品が全然肉体を生活していないので驚いた。すべてが男女の人間関係でありながら、肉体というものが全くない。痒いところへ手がとどくとは漱石の知と理のことで、人間関係のあらゆる外部の枝葉末節に実にまんべんなく思惟がいきとどいているのだが、肉体というものだけがないのである。そして、人間を人間関係自体において解決しようとせずに、自殺をしたり、宗教の門をたたいたりする。…漱石は、自殺だの宗教の門をたたくことが、苦悩の誠実なる姿だと思いこんでいるのだ。(戯作者文学論)
彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二、三十年後になって自殺する。奇想天外なことをやる。…自殺などというものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打ちもないものだ。(デカダン文学論)
現代文Bの授業で「こころ」を読む授業が終わったが、生徒たちは「先生」の自殺をどう受け止めただろう。年が明けてから提出してもらう感想文が楽しみだ。(4クラス分の感想文を読むのは大変だけど…)
先生は「遺書」の最後に、「私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。」と言っている。「あなた」と呼ばれる若者が「先生」より一回りくらい年齢が若いとは言え、現に同じ時代を生きているにもかかわらず「先生」の自殺を理解できないとしたら、今の高校生が理解できないのは当然のことだ。「先生」の自殺は問題の解決にはならず、「お嬢さん」を苦しめることにしかならないという批判が出てきてもおかしくないし、それが『こころ』という作品自体の批判につながっても良い。賛同、拒否、様々な読み方が許されるからこそ、定番教材なのだ。(芥川の「羅生門」も、鴎外の「舞姫」も、同じことが言えると思う。)
今回、授業の最後にこんな本を紹介した。
これは「こころ」の多様な読みの可能性を教えてくれる良書だ。作品の流れに沿って重要な論点を拾いつつ、様々な解釈を紹介してくれる。その上で、筆者の穏当な読みが示される。高校生には最適の参考書だと思う。
高校生には小説を読む楽しさの他に、小説について書かれたものを読むことの楽しさを知ってもらいたい。
またまた魅力的な句集をいただいた。冒頭の一句に戸惑う年の暮れ。その句、
穴すべてブラシで磨く春の朝
何の「穴」か、なぞ。「穴すべて」とあるから、穴はたくさんある。その穴の一つ一つにブラシを差し込んで丁寧に磨く。久しぶりにきれいに磨かれた、穴、穴、穴。こんなふうに、春の一日が始まるのも悪くない。
山羊の仔にガウディと名付け山下る
可憐な山羊の仔に、未完の大作、サグラダファミリアで知られる建築家の名前を付けてしまう、そのミスマッチングが可笑しい。別れるとき、もう一度「ガウディ」と呼んでみる。山の上での生活が名残惜しい。
梅雨曇り黄色のタクシーを選びけり
いろいろな色のタクシーが客待ちする中から、黄色のそのタクシーに決めたのか。それとも今日は黄色のタクシーと決めていて、待望のそれが走ってきたので手を挙げたのか。いずれにしても、今日はどの色の靴を履いて行こうかしら、という感覚でタクシー選びを楽しんでいる。さて、黄色のタクシーに乗って運ばれて行く先はどこなのか。そもそも、行く先は決まっているのか。いや、黄色のタクシーに乗ること自体が目的なのではないのか。
手を洗ひ髪で拭く癖花曇
春夕焼キリンが角で交信す
ぱららんとトランペット鳴り梅雨明くる
献血の基準に足らず寒菫
花見シートの下のでこぼこ埋立地
日ノ出町の交番前でいつも咳
「あとがき」に「句は作者の性格のみならず、人生を表すと信じている」とある。魅力的な句から、作者は素敵な人生を歩んでいる方に違いないと想像する。
僕には、ここに収録された作品のすべてが秀作であるとは感じられない。しかし、「古本屋台」はなかなか魅力的(原作:久住昌之、画:久住卓也)。古本満載の屋台で飲む焼酎のお湯割りは美味いだろう。一杯しか飲ませないオヤジが渋い。
久住昌之原作の漫画は、以前も読んでいる。→散歩文学 - 僕が線を引いて読んだ所
横尾忠則の『名画感応術』。ゴッホ、マネ、モディリアーニ、などの名画を、横尾忠則流に鑑賞、といっても、期待していたほど刺激的なことは書いてないが、取り上げた名画はどれもみな魅力的。
芸術の本源はこの現象界にあるのではなく、もともとは天上界に存在するものである。それが芸術家の直感によって地上に降ろされて初めて芸術作品と呼ばれるのだ。その意味でも芸術家は神の媒介者である。神の意志を伝達する道具でなければならない。
芸術を前にして鑑賞者が快楽的あるいは官能的になることは、感情が魂と共振した証でもある。芸術を知的に認識することだけが芸術ではない。まず芸術は感応するものだとぼくは思う。また感応は官能に通じる。
こういう本があるのを知って、取り寄せて読んでみたのだが、『人生論ノート』の難しいところはやはり難しいことに変わりはない。ただ、この著作の難しい言い回しの裏には、発表当時の時局への遠回しな批判が込められているかもしれない、という視点を持って読み直してみることで、筆者の真意が掴めるかもしれないことを教えられたのが収穫。
たびたび不掲載や発禁処分を受けてきた三木は、哲学用語やレトリックを駆使して晦渋な書き方をするほかなかったのです。