怪物、虚子

『虚子五句集』の、今回は下巻。

虚子五句集 (下) (岩波文庫)

虚子五句集 (下) (岩波文庫)

今回もまた○印をつけた句を挙げてみますが、残念ながら今回はあまり「発見」がありませんでした。つまり前回と同じように、山本健吉『現代俳句』所収の句と平井照敏編『現代の俳句』所収の句(たとえば「去年今年…」など)を除いてしまうと、残る句は上巻と比べてずっと少なくなってしまうのです。

末枯れの歩むにつれて小径現れ
朝顔の二葉より又はじまりし
一片の落花峰より水面まで

大岡信は巻末の「解説」で、大学時代に

去年今年貫く棒の如きもの

と出会い、「この高浜虚子という俳人は、ひょっとしたら現代詩や現代短歌の作者たちをも越えて、恐るべき腕力をふるう現代の大詩人ではなかろうかと、ひそかに畏敬した」と書いています。しかし、大岡信がここで具体的に取り上げてコメントしているのはこの句だけです。『虚子五句集(下)』に収められた約1,500句のうち、詩人大岡信をして虚子を「畏敬」せしめるほどの句というのは他にどのくらいあるのでしょうか。
「解説」中には次のような記述もあります。「彼の晩年の俳句作品は、『七百五十句』で網羅されているわけでは毛頭ない。この句集に洩れている作品で、句集収録作品と並べても何ら遜色ないような句は、まだたくさんある。」また、『七百五十句』は「ホトトギス」の刊行号数にちなんで「無造作」に収録句数を決めたのだから、「洩れ落ちる秀逸の句も数多く出るのは当然だった」とも書いています。そういうことならば、さらなる「発見」を求めて、次はぜひとも虚子の全集を読まねばなるまいという気持ちになります。
しかし一方で、「ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に」のあとから「花の数倍にも見えて風椿」が出てきたりすると、刊行数に合わせて750句などと言わず、もっと厳選してもよかったのではないか、とも思ってしまうのです。
それから今回気になったのは、次のような句です。

ものゝ絵にあるげの庭の花芙蓉
山川のくだくる水に秋の蝶

あるげの」「くだくる」のような言い方が文法的に正しいか否かということはさておき、五七五に収めるためにいかにも無理をしたような語法は、感覚的には受け容れがたく感じます。
それから、どう読んだらよいのか戸惑ってしまうのが次のような句です。

浅間八ツ(嶽)左右に高く秋の立つ

八ツ(嶽)」のような表記の仕方は俳句では許されるものなのでしょうか。
最晩年まで膨大な作品を繰り出し続け、五七五という詩形式を苦もなく操っていたかのように見える虚子ですが、時に

人間吏となるも風流胡瓜の曲がるも亦

などと定型を大胆に破って見せ(これはなかなか愉快な句ですが)、また上に挙げたような句では言葉の方を無理やり定型に押し込んでしまうという力技をやってのけます。「解説」で大岡信が「一種の怪物性」と呼ぶのは、そのあたりの事情も含んでのことなのだろうと僕は勝手に解釈しているのですが…