筆者の問題意識はどこに?

今回は、各章ごとに要旨をかいつまんでまとめてみた。ところが、最終章の最後の一文がそれ以前の内容とうまくつながらない。
そもそも、「詩はどこに生まれるか」というのが頭書の問題意識だったと思われるのが、一茶を論じるあたりから、少しずつ論点がずれてきて、「俳句の大衆化と、それに伴う問題点」へと話題の重心が移ってしまったようだ。(それはそれで興味深いテーマなのだが。)
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第一章 転換する主体
「俳」の意味する滑稽、戯れとは、ある人が別の誰かに成り代わって演技し、詩を作ることだ。
第二章 切れの深層
歌仙において句と句の間に起こる主体の転換は、発句ではその内部にある切れがもたらす間のうちに起こる。
古池や/蛙飛こむ水のおと
第三章 空白の時空
一物仕立ての句では、句の前後の切れによって主体の転換が起こる。丸ごと一句が現実の世界から切れるのだ。
/秋深き隣は何をする人ぞ/
第四章 無の記憶
詩歌は、作者が作者自身を離れて(役者が役になりきるように)詩歌の主体となりきって作られる。そのとき詩人は、我を忘れてポーっとして、空白の時空に心を遊ばせる。空白の時空とは言葉以前の世界、永遠の静寂であり、それへの郷愁こそが詩歌なのだ。
第五章 新古今的語法
新古今的語法とは、言葉を大胆に切断し、結合させる語法で、俳句の取り合わせとはこの「言葉の切り結び」の最少単位だ。
第六章 禅の一撃
通常の言葉の論理では真理に到達できないという禅の思想が新古今的語法につながった。禅も俳句もシュルレアリスムも、言葉以前の静寂への郷愁が姿を現したものだ。
第七章 近代俳人、一茶
古典を踏まえた俳句から、日常の言葉による大衆の俳句へと転換させた一茶から、俳句の近代は始まる。子規は近代俳句の創始者ではなく中継者だ。子規は写生を唱えたが、写生は言葉の想像力を表現する方法の一つに過ぎない。
第八章 古典主義俳句の光芒
蕪村の郷愁は近代につながるが、古典主義俳句の最後の人と位置付けるのがふさわしい。
第九章 近代大衆俳句を越えて
大衆を束ねる指導者として客観写生を唱えた虚子と、俳人虚子とを同一視するのは誤りである。虚子は心を自由に遊ばせて句を詠んでいる。蛇笏も、龍太も、楸邨も、その作品は言葉の想像力の賜である。高度成長と共にあった俳句の大衆化がもたらした批評の喪失という現実を直視しなければならない。