励まさない

「文学国語」の教科書(東京書籍)に、若松英輔という批評家の「言葉を生きる」という文章が載っている。その中の一節。

悲しむ者をいたずらに励ましてはならない。そうした人々が切望しているのは安易な激励ではない。望んでいるのは、涙がそうであるように、黙って寄り添う者ではないだろうか。更に言えば、励ましとは、頑張れというような一方的な言葉をかけることではなく、容易に言葉になろうとしない相手の感情を写し取ろうとすることなのではないだろうか。語られない励ましが、かえって深く人を癒やすこともあるだろう。

この部分を読んで、僕は昨日見た映画、「飯舘村 べこやの母ちゃん」をすぐに思い浮かべた。これは福島の原発事故のために住み慣れた飯舘村での牧畜ができなくなった三人の女性を10年間にわたって追い続けたドキュメンタリーである。

この映画の監督=カメラマンである古居みずえは、「母ちゃん」たちに至近距離からカメラを向け、表情を写し取り、声を聴き取る。時には「母ちゃん」たちと言葉を交わすこともある。しかし、「頑張れ」とは決して言わない。寄り添うことに徹しているのだ。

「母ちゃん」だけでなく、その夫も、家族も、辛い日々を送っているにもかかわらず、カメラの前で生き生きとした表情を見せてくれているのは、ただ写されているだけでなく、寄り添われている=癒されているという安心感があるからではないだろうか。そして、そんな彼らの表情と前向きな生き方に、観客である我々も癒されるのだ。