井上弘美の『読む力』。全編を通じて筆者の読みの深さ、鋭さに圧倒される。また、随所に作句上の要諦も示される。なるほどと思ったもののうちのいくつかを、要約して挙げてみる。
鳥の声梢をともに移りつつ 岩田由美
「移りつつ」が「移りけり」だったら映像にならない。鳥たちの微妙な動きが見えない。
一筋の冷気となりて蛇すすむ 山本一歩
「冷気となりて」(隠喩)が、「冷気のごとく」(直喩)だったら、説明的で、「冷気」が鋭さを失う。
断崖をもつて果てたる花野かな 片山由美子
「断崖をもつて」が「断崖によつて」だったら、単なる理由の説明で、厳しさがなくなる。切り立つ断崖が見えてこない。
応へねばならぬ扇をつかひけり 山尾玉藻
「応へねばならず」だったら、「~だから」という理屈になり、状況説明になってしまう。「応へねばならぬ」を扇を修飾する言葉としたことで、扇の存在感が増した。
写真にはたくさんの息夏落葉 対馬康子
「たくさんの顔」だったらあまりにも平凡。「息」感じ取れる人はまず居ない。
寂しさに音ありとせば鉦叩 辻田克己
「寂しさを呼び覚ますなり鉦叩」では「寂しさ」が句の答えになってしまって平凡。「せば」という文語がスパイスのように効いて、調べも内容も引き締まった。
陽炎のなかに肩抱く別れあり 駒木根淳子
「別れかな」では軽く、「肩抱き別れけり」では作者の体験になってしまう。「別れあり」はそういう別離が数限りなくあることを想像させることができた。
…などなど。たった一語の選択次第で、名句ともなり駄句ともなる。そこを見抜く眼力も、優れた句を見出す鑑賞には求められる。