諸悪の根源としての「感動」とは?

冒頭に置かれた「感性は感動しない」を何度も読み返した。
しかし、どうしても途中から理解できなくなる。

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

 

「感性」をみがくことはできない。「努力」や「修行」によって磨くことができるのは「技」である。芸術に「技」は必ずしも必要ではない。芸術に必要なのは「感性」である。だから、芸術を「教える」ことは「ひどくむずかしい」。たとえば美術史なら教えることはできるが、それを修めたからといって「よい絵」を描けるようになるわけではない。
そもそも「よい絵」とは、見る人の「心を動かす」ものだ。

哀しみでも憎しみでも喜びでも怒りでもかまわない。ポジティヴな感情でもネガティヴなものでもかまわない。見る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる。いても立ってもいられなくなる。一枚の絵がなぜだか頭からずっと離れない。それが、芸術が作品として成り立つ根源的な条件なのである。

 ここまでは、よくわかる。ところが次の段落から先が難しくなる。

芸術が生み出すこうした現象を、私たちはしばしば「感動」などとひとくくりにしてわかったつもりになってしまう。これがよくない。その意味では芸術にとって「感動」は諸悪の根源だ。

人は、気持ちが「グラグラと揺り動かされる」ような経験をしたとき、「感動」したと言う。それがなぜ「諸悪の根源」と言われるほどに問題なのか。筆者は「かたまりとしての思考」以下の諸編で、絵を鑑賞するのに大切なのは、絵をまるごと「かたまり」として受けとめることだと繰り返す。(筆者がこの本全体を通して一番言いたいのはそのことだと思われる。)筆者は気になる絵の前に立つときは、意見も感想も述べたくない、「答えも結論も出さないまま感じていたい」というのだが、そういう心の状態をシンプルに表す言葉として「感動」はふさわしくないのだろうか。
次の段落はさらにわかりにくくなる。

感動などと言って済ませようとした瞬間に、あの苦労物語がここぞとばかり首をもたげてくる。この絵を描くのに、画家がどれだけ血のにじむ努力をしたことか。どれだけ多くの人が関り、波乱万丈の道程があったことか。などなど。

芸術作品に触れて「感動」した鑑賞者は、いつでもその作品成立の陰に「血のにじむ努力」があったとか「波乱万丈の道程」があったはずだと考えるものだろうか? 逆に、「感動」という言葉が浮かばなくても、絵を観ていて、「この画家はきっと女でさんざん苦労したな」などという「雑念」が浮かぶことがあるだろう。それって、鑑賞態度としてまずいことなのだろうか。

次の段落の真意も汲みとり難い。 

こうなってくると、無理矢理にでも感動しなければいけない気持ちにもなってくる。感動しなければ、自分が罪深いようにさえ思えてくる。一致団結して感動を支えるべきだ。そのためには、もっともっと勉強しなければならない。努力して感性をみがかなければならない。

まず、無理にでも感動しなければという気持ちはどこから生まれてくるのかがわからない。(「こうなってくると」の指示内容があいまいなのだ。)そもそも、どうしても「感動」できない自分を「罪深い」などと責める人がいるのだろうか。「一致団結」って、いったいどういうメンバー同士が団結するのか?(俳句結社のようなものを思い浮かべてみると、わかったような気にもなるのだが…)
筆者は「感動」という言葉で片付きそうなところでも、あえてそれを避けて「心を動かされる」「心を揺さぶられる」という表現を繰り返す。どうやら筆者は「感動」という言葉に、余計な夾雑物が絡みついているように考え、それを忌避しているようにもみえる。しかし、その夾雑物が何であるかが明確に見えてこない。

そして、そもそも「感性は感動しない」という題名に「感動」という語が使われていたことに気付くのだが、やはりこれがどういう意味なのか、わかりそうでよくわからないのだ。