教科書を疑え

養老孟司の「トキがいなくてなにが困る?」は、環境問題を考えさせるのにいい教材だと思う。これは『いちばん大事なこと―養老教授の環境論』集英社新書)の「第4章 多様性とシステム」からの抜粋なのだが、この「抜粋」という作業は注意しないと問題を孕んでしまうことがある。つまり、こういうことだ。

 トキが自然界から隔離されても、いまのところ、自然というシステムはさほど影響を受けていない。しかし別の生物だったら、破綻にいたることがあるかもしれない。それは、トキがシステムにとって重要でなく、別の生物が重要だという意味ではない。自然というシステムは、たくさんの生物が影響しあって微妙なバランスを保っている。だから、どれかが欠けたときにどんな影響が現れるかは、よくわからない。そのときの状況によって左右されることもあるかもしれない。いまの場合、トキの影響は目に見えるほどではなかったが、別の条件の下だったらもっと深刻な事態を招いたかもしれない。あるいは、長い時間が経ったあとで、大きな影響が現れるかもしれない。システムを構成するなにかが欠けたとき、どんな影響がいつ現れるかは、予測がつかない。
 これを逆向きにいうと、システムを構成する要素は、システムを維持するためにいつもなんらかの役割を果たしている可能性があるということになる。だから、システムの構成要素をいたずらに減らすことは慎むべきなのである。自然の構成要素である生物の多様性を保つ必要があるのは、そのためでもある。

これは教科書本文の一部を引用したものだが、ここでは、なぜ生物の多様性を保つ必要があるのか、その理由が述べられている。すべての生物が自然というシステムの構成要素として何らかの働きを果たしているから、というのがその理由だが、理由はそれだけではない。最後の「そのためでもある」という表現は、もうひとつの理由の存在を示唆している。「も」という語にはいつも注意が必要だ。
ところが、教科書の本分のどこを探してももう一つの理由が見当たらない。それもそのはずで、理由の一番目が書かれている個所は、教科書には抜粋されていないのだ。教科書採録部分よりも少し前を読んでみれば、その理由はすぐ見つかる。生物多様性を保護する必要があるのは「人殺しはいけない」のと同じことである、という趣旨の主張が明確に述べられている。
いちばん大事なこと―養老教授の環境論 (集英社新書)教科書編集者は、「そのためでもある」の「も」の存在に注意を払うべきだった。そして、脚注で補足するか、あるいはいっそのこと「も」を省いてしまうか、何らかの対応をするべきだった。そうでないと、賢明な生徒がもうひとつの理由を見つけられずに戸惑ってしまうという事態が起こりかねない。
もっとも、さらに賢明な生徒なら、教科書を疑い、疑問を解くために出典にあたろうとするだろう。『一番だいじなこと』は、ぜひ高校生にも丸ごと一冊読んでほしいと思う本だ。