人体冷えて

人体冷えて東北白い花盛り   金子兜太

このブログのアクセス解析を見ると、この句を検索して僕のところに来た人がとても多いのです。(検索語の一番は「山月記」、二番に多いのがなんとこの句なのです。)この句は中学の国語の教科書に載っているようなので、おそらく先生に「この句について調べたり感じたりしたことを発表しなさい」と言われた生徒が、まずはインターネットで調べてみようとして、学校のコンピュータでいろいろ探している途中で僕のブログが出てきちゃったというのが真相だろうと想像します。(最近の子供は、先生に「調べなさい」と言われると、すぐインターネットですから…)
ところが、僕のブログではただ僕の好きな句として挙げているだけですから、何か情報を得ようとする生徒にとっては何の役にもたちません。それどころか、僕はこれを「僕の好きな桜の句」の一つとして挙げているので、生徒には一つの固定観念を与えることになってしまっている恐れもあります。もちろん、伝統的には「花」といえば「桜」ですし、これを「(桜の)花盛り」の例句として挙げている歳時記もあります。でもこれを例えば「東北なんだからリンゴの花だ」とする解釈があったっていいはずですし、まして生徒が自分でそう感じたのだとしたら、それは尊重すべきです。

さて、今日のことです。本箱の中から『Series俳句世界5 俳句・深層のコスモロジーを引っ張り出して、その中の座談会「無意識と想像力」(岡井隆金子兜太、土井健郎、復本一郎の4氏による)を、こんな面白い本が買ったままになっていたんだ! と思いながら読んでいたら、線を引っ張ってある箇所が出てきました。なんだ、前にもう読んでいたんだ…
その線を引いてある場所というのが、金子兜太自身が「人体冷えて」の句について語っているところだったのです。

俳句・深層のコスモロジー (Series俳句世界 (5))

俳句・深層のコスモロジー (Series俳句世界 (5))

金子 あれは津軽に行って、現実に早春の農家の人達が頬被りをしていて体が冷えている感じだったんですよ。しかし、もう白い花々が咲いていたわけです。それだけのことなんですね。それをそのまま書いた。だから私の頭の中ではむしろ営農の辛さというか、津軽の農家の人たちへの思いを書いた。ところが後輩の若い連中がこれを読むとね、「人体冷えて」は日本列島全体で人体全体が冷えているようなそういう季節感、そして東北はいま白い花盛り、はるばるとした想望の句としてね、イマジネーションの句としてとられていますね。
復本 僕は東北の美を歌ったという印象でした。
金子 ええ、復本さんのは中間なんですね。もっと若い人たちはね、もっと一般的に自分の体が冷えてる、東北は白い花、その辺の関わりというか、そこに限りなく季節の情感をかき立てられるということがあるようです。
復本 僕もこの句は金子さんの作品の中で非常に好きな句です。
金子 私は非常に意識的にリアリスティックに作ってきたつもりなんだけれども、どうもはみ出し部分、無意識部分が残るってことですね。
復本 そうですね。先ほどからいろんな方がおっしゃっているように、作者の意図した以外のものが作品に多く出ている。
金子 ええ、それが多様な解釈ということですね。

ここにはこの作品の成立事情が「種明かし」されていると同時に、その作品の多様な解釈の可能性について、この座談会のテーマである「無意識」と絡めながら述べられています。(中学生の皆さん、参考になったかな? でもどこか他のサイトでも、この部分を引用しているかもしれませんけどね。)
ついでに僕なりに、この句の魅力を分析しておきましょう。
まず何よりも、「人体冷えて」という措辞の斬新さ。これはきわめて即物的に「人体」そのものの状態を表現しているのであって、作者自身が言う「営農の辛さ」などといった人間臭さはむしろきっぱりと捨象されていると感じます。しかし面白いことに、この「人体」という言葉は、具体的なモノとしての「人体」を表現するにとどまらず、それ以上の何かを表しているようにも感じられてなりません。それは例えば南北に横たわる日本列島のイメージとも重なりはしないでしょうか。
そして、この「人体冷えて」が後半の「東北白い花盛り」との間に見せる絶妙な調和! ここに、個々の人間の「死」と、繰り返し再生される自然の「生」という対比が見られるなどと言えば、あまりにも図式的すぎると言われるかもしれません。むしろ「白い花盛り」にこそ、「死」に向かう不吉な予感を読み取るべきなのかもしれません。
また、こうしてあらためて作品と向かい合いながら思うことですが、「花」はやはり「桜」でなくてもいいのではないでしょうか。では、「リンゴの花」なのか、いや、それはあくまでも「白い花」と呼ぶしかない、抽象的な存在なのだと言い切ってしまいたい思いを僕は捨てきれないでいるのです。
もとより、この句に固定的な解釈を与えて、その魅力を説こうなどというつもりはありません。先ほどから僕は、思いついたことを書いては消し、書いては消しして、ようやくここまでたどり着いたわけですが、容易に一つの解釈に収斂されることを拒む作品こそすぐれた作品であるとするならば、この句もまたそうしたすぐれた作品の一つに数えられるものであることは間違いないでしょう。