「国家」を担うことば

久々にちょっとカタい本を読みました。『「国語」の近代史―帝国日本と国語学者』(安田敏朗著、中公新書です。
帯に書かれた「明治維新後、国民統合の名の下に創られ、国策とともに歩んだ「国語」の100年」という文句を引くだけでも、本書のおよその内容は推測していただけると思いますが、もう少しだけ詳しく紹介しておきます。


明治維新以降、近代国民国家を形成するためには「国家の制度」を効率よく運用し得る「ことば」が必要であった。つまり「いま現在の国家の範囲で、等しく同時に書かれ話されることば」=「国語」をつくりだすことが不可欠とされてきた。「方言」は「標準語」へと変えられていく。
敗戦後、「伝統」に変わって「民主化」が叫ばれるようになっても事情は変わらない。「国語」をめぐってはいまだに様々な議論があるが、国家制度を担うものとしての「国語」は引き続き機能しており、その点に批判が加えられることは無かった。
こうした「国語」の100年の流れの中で、国語学者や各種機関がどのような仕事をしてきたかを概観する、というのがこの本の主旨だとまとめておきましょう。「教科書的」と言えなくもない、退屈といえば退屈な本ではあります。
しかし、著者は過去の事実をただ並べるだけで満足はしません。著者の言語観の根底には

これまでは、ことばは「民族」なり、「国家」なりとの結合が当然のこととされすぎてはいなかっただろうか。そうであるからこそ、まずは「わたし」のものとして考える、という視点をもってみたいのである。
ともかく「日本人らしさ」に始まり、「民族」や「伝統」そして「国家」というようなものに回収されないものとして、みずからのことばを確立していくことが、とりあえずは必要だと思うのである。

と書かざるを得ない思いがあり、それは本書の随所に顔を出しています。これは必然的に昨今の日本語ブームの中で「文語文」を「声に出して」読むことが礼賛されるといったような現象に対する疑問につながります。このあたりをもっとふくらまして書いてもらったほうが、本として面白くなったことは確かです。
ともあれ、こうした本を読んで自分自身の仕事をちょっと離れた視点から眺めてみることも、とにきは必要なことだと僕は考えています。


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