同訓語のビミョーな使い分け

 ちくまプリマー新書というのは、高校生くらいの年代の読者をねらった、親しみやすい教養書、というコンセプトなのだろうと今まで勝手に思っていたし、実際読んでみて、これは生徒にもすすめようと思ったものが多かった。しかし、『漢字からみた日本語の歴史』はフツーの若者にとってはちょっととっつきにくい本かもしれない。読みごたえのある面白い本で、学問の面白さを教えてくれるという点では若者向きとも言えるが、日本語表記についての問題意識をもっていない読者は、読み通すのがつらいだろう。これが「岩波新書」や「中公新書」であっても少しもおかしくない、という感じだ。

 さて、この本には、僕自身の問題意識にひっかかってきた点がいくつかあるのだが、そのうちの一つについて、日ごろから考えていることを書いておきたい。

 「訓」を介して漢語を理解するという観点に立つと、「常用漢字表」の中には、新たに訓を認めた方がよさそうな例を見出すことができる。
 例えば、「露」。現在「訓」としては「つゆ」しか認められていないが、「露見」「露骨」「露出」「露呈」などの漢語の意味は、新たに「あらわす」という訓が加われば、それを媒介にして理解しやすくなる。同様に、「徴」という漢字に「しるす」「しるし」という訓を認めると、「特徴」「象徴」などの漢語が理解しやすくなる。
 以上のような筆者の考えに僕は異論はない。漢字、漢語の意味を理解しようとする際に、その漢字の訓を知っていることが大きな助けになることは間違いない。
 しかし、仮に常用漢字表に新たな訓が加わることになるとすると、一つ懸念されることがある。同訓の漢字の使い分けが、さらに煩わしくなる恐れがあるということだ。今、「恐れ」と書いたが、「おそれ」には「恐れ」「虞」があり、常用漢字表外まで含めれば「惧れ」「畏れ」「懼れ」もある。これらの使い分けを気にしだすと、非常にやっかいなことになる。国語辞典で確認しても判然としないこともあり、あれかこれか迷っていた二つの漢字のどちらを用いてもよかったということもある。こうした煩わしさは日常しばしば経験することだ。
 「税金を納める」「利益を収める」「学問を修める」「国を治める」などは、何を「おさめる」のかが明確なのだから、すべて平仮名で書いてしまっても何の不都合もないはずだ。いちいち漢字を使い分けるというのは、和語である「おさめる」を、中国語である「納」「収」「修」「治」にいちいち翻訳するという無駄な手間をかけているのだと考えることもできる。「成績をおさめる」で十分意味は通じるのに、この場合「収める」「修める」のどちらが妥当であるかで頭を悩ますことに、どれほどの意味があるのか。
 「あらわす」には現在「表す」「現す」「著す」、表外では「顕す」もある。これに加えて「露す」がもし常用漢字表で「公認」されてしまうと、たとえば「本性をあらわす」は「露す」を使う人が増えて来て、やがて「本性を露す」が正しい書き方であると言い張る人も出てくるのではないか。これは厄介なことである。
 こうした点については、筆者はどう考えるだろうか。

 ちなみに、僕は学校では生徒に、一つの漢字の音と訓をセットで覚えるようにはすすめるが、同訓の漢字の微妙な使い分けについてはあまりうるさく教えないし、試験にも出さない。僕自身が辞書で確認しなければ自信を持って判断できないことも多いし、前にも述べたように、そういう時は平仮名で書けばすむ話だからだ。