少々古い本ですが…

 しばらく前に買って、そのまま放置してあった『日本語のできない日本人』を読んでみた。

日本語のできない日本人 (中公新書ラクレ)

日本語のできない日本人 (中公新書ラクレ)

 書名そのものもそうだし、カバーや帯に書かれている

通じないわからない…それでも彼らは日本人

教育崩壊もここまできた 若者の「不可解」を本書で明らかにする

などの文句は、いかにも近頃の若者の出来の悪さをあげつらって読者を面白がらせようとする本のような印象を与えるが、この本は決してそんな底の浅い本ではない。日本語の諸問題について考えるための有意義な情報を提供してくれている。
 しかし、実はこの本はとっくに賞味期限を切らしているのだ。この本の発行は2002年。その後教育の世界は、学校週五日制の完全実施と授業時間の削減、「総合的な学習の時間」の導入、学力低下問題の浮上と反ゆとり教育への動きという大きな変革の波をかぶるわけだから。それでも意外と興味深く読めたのは、本書が言葉の本質にかかわる研究を踏まえた著作であるからであり、また、著者が問題とする、日本語におけるローマ字・カタカナ言葉の氾濫や、漢字力の低下という事態には、当時と現在とではほとんど違いがないからである。
 ただ、残念なことは「日本語のできない日本人」に対して出される筆者の処方箋には具体性が欠けるということだ。本書のエッセンスを示すのは、例えば次のような一節だ。

 むやみやたらと漢字が多くて意味がわからないのも、カタカナやローマ字が多くて意味がわからないのも、ともに困ったことだ。
 とはいえ、たぶんだまっていても、ローマ字の増加は抑えられないし、漢字運用能力が低下することも抑えきれないだろう。
 そこで、私の考えるのは、使用する漢字の量を減らし、その代わりに厳選された2000なり3000の漢字を、今よりももっと時間をかけて教えることである。それが結局漢字の運命を長く保つことにつながるし、日本語が延命するためにも役に立つだろう。

 著者はローマ字・カタカナ言葉の氾濫に対しては極めて否定的であるが、具体的な改善策は示されていない。著者がまだ存命であったなら、新たな研究の成果と将来への展望を示していてくれたであろうにと、残念でならない。
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 本書で初めて知って少々驚いたのは、昭和20年代、30年代の国語の大学入試問題が現在普通に見られる、いわゆる読解問題とはずいぶん違うもので、「知識」を問う問題が優勢であったということだ。その「知識」については、著者は次のように述べている。

 ここではっきりさせるべきことは、読み書きの力はやはり知識なのだということだ。考える力を養わなくてはいけないという人がいるが、人は材料を持たずに考えることはできない。独創的な思想は知識の蓄積の上に築かれなければ、単なる着想に留まることになる。…いきなり考えてみようと言われてみても、それは無理というものだ。手がかりとしては、やはりいろいろな考え方を知識として身につけることが必要だろう。考える力は知識を身につけることから生まれる。

 本書の中でも、著者が最も力を込めて述べている部分だ。最近よく耳にする「新しい学力観」に対して、この著者ならどういう見解を示したか、ぜひ知りたかったのにと悔やまれる。