今年の春も、桜の花を堪能しました。
僕の好きな桜の句
さきみちてさくらあをざめゐたるかな 野澤節子
人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太
手をつけて海のつめたき桜かな 岸本尚毅
「考える人」春号の中のインタビューで、川上弘美はこんなことを言っています。
言葉の一つ一つについて、できるだけ考えたいというのは、やはり俳句の影響だと思います。よく言われることですが、俳句では、桜という言葉を使うとしたら、それまでに書かれた桜に関する文章や和歌や俳句や、そういうものぜんぶを含んだ「桜」として使うわけです。言葉がすでに何かの意味を付与されているということをまず意識させられる。その後、ではここでは何を含ませるか、みんなが共通理解してくれるのは何かと、一個一個検証していくようにしないとつくれないのが、俳句だと思うんですね。小説でも、知らず知らず同じ作業を行なっているのかもしれない。言葉の歴史を背負いながら、かつそれを疑うというようなことをきっとしてみたいんですね。
川上弘美の短編集『溺レる』の最初の短編「さやさや」の語り手は「サクラ」という女性です。
サクラさん、ぼくちょっと疲れた。メザキさんは道ばたに腰をおろした。手をつないだままだったので、座っているメザキさんにすがりつかれるかたちになる。立ってないで、サクラさんも座ったら。ね、座りましょう。メザキさんがハンカチを敷いてくれた。闇の中で、ハンカチはしろじろと浮きあがって見えた。ハンカチを敷くために、つないでいた手を放されたので、手がものたりなくなった。てのひらにほんのりと汗をかいていたが、汗が自分のものなのかメザキさんのものなのか、わからなかった。よっこいしょと言いながら、ハンカチの上に座った。
「サクラ」さんも「メザキ」さんも、現実世界とのつながりが書かれていません。次の作品「溺レる」の「モウリ」さんと「コマキ」さんも同様です。現実世界と切れている。だから、これらの短編から僕は「俳句的」という言葉を思い浮かべます。
最後に、拙句
白波の音のとどかぬ山桜