『俳句界1月号』を読んで(2)

職場の同僚Aさんが、短歌に興味があるならと言って、ご自身の歌の載っている歌誌『氷原』(07年11月号)を貸してくださいました。
知人の突然の死を契機に久しぶりに作って投稿したという作品からは、亡くなった知人と残された家族への深い愛情と共感がにじみ出ていました。その中の一首。

ぎこちない遺影の笑みは突然の死を受け容れられぬ死者のとまどい

僕はこれを自分の「句帳」に書き写しながら、『俳句界』1月号で読んだ次の俳句をふと思い出し、俳句と短歌との違いに思いは及んだのでした。

哭く人を笑ふ遺影や夜の長く    辻桃子(「新作巻頭3句」より)

笑みを含んだ「遺影」という同じ題材を詠みながら、その作品がもたらす感銘の質のなんと異なること! もちろん、同じ題材とはいえ、それに触発された思いそのもの、つまりは作品へと向かう発想の母体そのものが違うわけですが、そこには短歌と俳句という詩形式の違いという側面も不可分に絡んでいるのではないでしょうか。
Aさんの歌は、うっかりすると字余りを含むことさえ気づかないほどのなだらかな調べの中に、亡き知人の遺影を前にした作者の率直な思いをのせることに成功しています。「とまどい」は「死者」のものであると同時に作者自身のものでもあるでしょう。そこからは遺影と作者との無言の会話が聞こえてきそうな気さえします。
一方、辻桃子の句はどうでしょう。
「哭く人を笑ふ」という意表を突いた書き出しは、いわば言葉の流れを鋭角に折り曲げたかのような印象を読み手に与えます。そして「哭く人を笑ふ」のがほかならぬ「遺影」であることがまた読み手に次なる驚きをもたらします。切れ字「や」をはさんで置かれた下五は、「笑ふ遺影」という、考えてみればごく普通のモノを鮮烈なイメージとして読み手の中に定着させます。こうして「遺影」は長い夜を笑い続けるのです。
ここには、モノとしてより純化され、突き放された対象を通してその奥にある本質を浮かび上がらせようとする、俳句形式の特質がよく表れているのではないでしょうか。
二つの作品を並べてみて、ふとこんなことを考えたのでした。


『俳句界』ではこの1月号から「となりの芝生から」という連載が始まり、今回は小池昌代(作家・詩人)の文章が載っています。
また、これは以前から続いている連載ですが、「佐高信の甘口でコンニチハ!」に今回登場したのは、歌人佐佐木幸綱。言ってみればこれもまた「となりの芝生」の人。
このところ「となりの芝生」が気になる僕にとっては興味深い記事ではあるのですが、「俳句界時評」「俳句界速評」あたりはもっとページ数を増やして、「俳句雑誌」としての内容をより充実させて欲しいというのも、率直な感想です。