「教育基本法」の政府案が衆院で可決されてしまいました。懸念されることの一つは「愛国心」の強制です。既にどこかの小学校で行われた「愛国心」の「評価」などということがあちこちの学校で始まったらと思うと、憂鬱になります。
- 作者: 姜尚中
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2006/10
- メディア: 新書
- クリック: 30回
- この商品を含むブログ (42件) を見る
著者は、そもそも「愛するとはどういうことか」という根本から書き起こします。著者はエーリッヒ・フロムの著書を援用しつつ、「愛するということは、生きることが技術であるのと同じように、一つの技術なのです」と言います。(僕はここで、最近読んだ『星の王子さま』を思い出してしまいました。あの「王子さま」は地球に来て初めて、自分の星に一輪のバラを置き去りにしてしまったのは、その愛し方を知らなかったからだ、と後悔するのです。)そしてさらに次のように続きます。
愛することが技術である以上、技術は習得されなければなりません。そしてその習得の過程は、理論と習練のふたつの部分から成り立っています。…国を愛することや愛国心もこのプロセスを踏んでいく必要があるはずです。
また、別の場所では次のようにも言います。
…「愛国心」の涵養を説く人々の中には、自分が生まれ、育った国を愛するのは「自然な」感情であり、それがないのが「不自然」だと訝しがる人が多いようです。
また「愛国心」の強制に反対する人々の中にも、その国を愛するのは「自然な」感情なのだから、法律や条令、規則で押しつけるのは筋違いだという異論が多いようです。つまり「愛国心」を強制する側も、それに反対する側も、国を愛すること、「愛国心」は「自然な」感情であるという考えでは一致しているわけです。果たしてそうでしょうか。
著者は、国を愛することは、家族や郷土を愛する自然的愛情の「同心円的な拡大」ではないと言います。なぜなら、国とは家族や郷土と違い、「一定の政治的意志」を持ち、「憲法=体制を通じて国民の共通の課題や利益の達成を図ろう」という「作為」を通じて形成されたものだからです。また、国家は「最高の奉仕」として「人間の生命の放棄」を求めるという点で、「人間の自然的感情」とかけ離れていると言い、次のように続きます。
だからその溝を埋める役割が、教育に期待されてきたわけです。つまり、国民が国家に対して与えようとするものと、国家が国民に要求しているものとの間の距離は、教育の力を通じて埋められていくのです。
上の引用部は、教師である自分にとって、とりわけ「国語」を教えている自分にとって、ずっしりと迫ってくるものがあります。「国語」とは、そもそも体制維持のための作為の産物なのであって、それを教え、評価している自分は既に「愛国心」を教え評価することを生業としているとも言えるのですから。
つまり、「愛国」という言葉を忌避し、それを一部の(右寄りの)人たちの占有物にさせておくのではなく、この言葉と真正面から向き合い、その向こう側に日本の理想像を作り上げようとする著者の態度は、僕らのような仕事をする人間にこそ強く求められているはずなのです。