書くというゲーム

ホンモノの文章力―自分を売り込む技術 (集英社新書)

ホンモノの文章力―自分を売り込む技術 (集英社新書)

「自己演出としての文章」の楽しみを説く本。
著者はまず「文は人なり」という常識に異を唱えた上で、次のように言います。

自分をどのように見せたいかを決めて、「見せたい自分」を演出するのが、文章だ。つまりは、化粧のようなものだ。文章を工夫し、知的な自分や真面目な自分や個性的な自分を演出する。そして、自分をアピールする。それが「書く」という行為なのだ。


文章を書くということは、ある意味で、未知の自分を求めて、自分を開拓する冒険でもある。化粧をすることによって思わぬ自分の魅力を発見し、自分を違った角度から見ることができるようになる。それと同じように、自己演出によって、新しい自分を発見し、自分の領域が広がっていく。

確かに、文章を書いていると、書きながら形作られていく自分というものを意識することがあります。つまり、どのように書くかによって、自分というもののありようが変わってきてしまう。「文は人なり」という言葉が表わす「文」と「人」との関係が、ここではちょうど裏返しになるのです。まず初めに「人」ありき、ではなく、「文」によって人が生み出される。
しかし、書くことによって「開拓」され、「発見」され、「演出」された「新しい自分」も、「自分の領域」を広げつつ自分の一部となっていくのならば、「文は人なり」という言葉もやはり真ということになるわけです。ああ、ややこしい!


著者が問題ありとするのは、「ありのままの自分」を飾らない「自分の言葉」で書け、と説く旧来の文章教育・作文教育です。
著者の主張は、正しい。
そもそも、「ありのままの自分」って、何なんだ。「ありのままの自分」なんてものは「ありもしない自分」なのであって、生きている自分というのは常に何かであろうとする、流動的な自分なのです。文章を書いている自分というものも、表現することによって何者かであろうとしている自分なのです。こうありたいと思う「自分」というものにもっと意識的になり、その「自分」の実現のために表現を工夫せよ、というのが著者の言う「自己演出」なのです。ひとことで言うなら、書くときはもっと戦略的であれ、ということ。
こう考えてくると、書くという行為は、意外とゲーム性を帯びているのかもしれないですね。